前回では,グルメ漫画の味覚表現の方法として,食卓自然主義のストラテジーと食通による説明のストラテジーの少なくともふたつが存在することを確認しました。食卓自然主義は,日常の食卓と同様のことば遣いを登場人物に促し,食通的説明のストラテジーは,これとは対照的に,登場人物にグルメリポーターの役割を負わせます。
両者の違いは,せりふの自然さを優先するのか,読者に対する情報提供を第一義に考えるのか,そのどちらかを選択するかによります。つまり,読者(観客)の存在という,日常の食卓には見られないフィクション言語固有の特徴をどの程度意識するかによって,味覚を表現する際のスタイルが変わるのです。
そして,日常の食卓なら明らかに過剰な味覚表現が,さほど不自然に受け取られない理由もこのフィクション言語の機構に存在します。フィクションのことばの構造についてもう少し考えてみましょう。
フィクションの物語において登場人物はほかの登場人物とせりふをかわしますが,そのせりふは当該の登場人物に発せられるだけでなく,常に観客(読者)に対しても向けられています。この構図を簡単に図式化すると以下のようになります。
(62) フィクションにおけるふたつのコミュニケーション
登場人物同士が作品世界のなかで行う会話は水平方向の実線の矢印で表されています。作品の小世界内の伝達ですから,これを微視的コミュニケーションと呼びます。
と同時に,作品の理解に必要かつじゅうぶんなだけの情報を読者に提供する義務を作者は負っています。垂直方向に伸びた実線矢印が,この情報経路を表します。作品の枠を超えた伝達になりますので,これを巨視的コミュニケーションと呼びます。
作品内で発話される登場人物のせりふもまた,作品世界を越えて読者(観客)にも届けられます。ですので,縦方向(斜め方向)の破線矢印も巨視的な伝達を行っている訳です。
フィクションにおけるコミュニケーションのこのようなあり方を喩えて言うなら,登場人物同士が会話をしているのを私たち観客(読者)が立ち聞きしているようなものです。しかも,立ち聞きされている登場人物たちは,そのことを知りつつ話の内容が観客にも分るようにわざと伝えている,そう考えてみてください。
登場人物のことばは,自分たちだけで話し合っているときとくらべてどのように変化するでしょうか。当然,説明くさくなります。『美味しんぼ』の,つまり,食通説明型の派手な味覚表現はこのようにして生まれます。
そして,『美味しんぼ』の味覚表現がときに不自然に感じられるのは,微視的レベルにおける発話の自然さを問題にするからです。日常の食卓の会話を基準にして改めて考えてみると,あまりに雄弁で分析が勝ちすぎています。
しかし,本来なら不自然に聞こえるはずのせりふまわしに対して,作品を読んでいるときにそれほどの違和感を感じない理由は,作品の筋書きと読者の期待にそった情報提供を行っているからです。読者は自分たちに向けられた情報をそれこそむさぼるように受け入れます。登場人物が食するごちそうの味わいがどのようなものか知りたいからです。
そのような理由で,食通説明型のグルメ漫画——第37回に言及した寺沢大介の漫画『ミスター味っ子』や,同じ作者による『将太の寿司』ものこのグループに属します——では,不自然なまでに饒舌な味覚表現が許されるのです。
これに対し,『クッキングパパ』の登場人物は,グルメレポーターの役を仰せつかってはいません。読者と等身大の登場人物は,読者が日常の食卓でふるまうように話します。ここでは,微視的コミュニーションにおけることばの自然さのほうが優先するのです。
さて,この微視的コミュニケーションと巨視的コミュニケーションの交錯がもたらす影響は,何も味覚の表現だけに現れるのではありません。ふたつのコミュニケーション回路を有するフィクションの言語機構がほかにどのような表現を生み出すのか,次回で確認することにしましょう。