前回,漫画におけるおいしさの表現ストラテジーには少なくともふたつある,と述べました。ひとつは,日常の食卓の論理に従うもので,おいしいものはおいしいとしか言いようがない,という確信にもとづいた表現を行います。この表現方法を食卓自然主義のストラテジーと呼ぶことにします。
『クッキングパパ』はまさにそのような方法をとる漫画です。『クッキングパパ』は,一般的な職場と家庭を舞台にした,日常のグルメ漫画です。福岡市在住のふつうのサラリーマンが,ふつうに仕事をこなしつつ,日々の料理に工夫を凝らします。また,やる気のある読者が自分で試せるように,毎回,レシピが絵入りで掲載されます。
このような漫画に芝居がかったせりふは必要でしょうか。
いや,素直に「うまい」「おいしい」とやっておくのが,もっともこの設定にかなうのです。たとえせりふ回しが単調になろうとも,『クッキングパパ』ではせりふは自然なほうがいい。私たちの日常から離れないほうがいいのです。
もうひとつの表現ストラテジーは,作品の特徴に見合ったかたちで,読者を念頭に置いた説明的な表現を登場人物にさせることです。この手法を読者志向型食通的説明のストラテジーと呼ぶことにします。ときに過剰な表現を作り出すだけに,命名も過剰なものにしてみました。(とは言うものの,やはり長過ぎるというかやり過ぎですので,「食通的説明のストラテジー」にしておきましょうかね。)もちろん,『美味しんぼ』の方法はこれに当たります。
『美味しんぼ』は味の求道者を描く漫画です。主人公山岡士郎は,「究極のメニュー」なるものを求めて,現代の食文化の頂点を極め,それを記録することを目ざしています。そして,目の前に立ちはだかる実父海原雄山と,ときに(『巨人の星』の星飛雄馬・一徹親子よろしく)料理で対決します。
そこでは「最高に美味しい」ことが最大の価値をもつのです。このような設定において「おいしい」や「うまい」だけですませられるでしょうか。
日常の食卓とは趣きの異なる「究極」「至高」の料理を前にして,単純で素朴な「おいしい」「うまい」だけでは釣り合いが取れません。出された料理に見合う表現がほしい。『美味しんぼ』では作品の性格上,どのようにおいしいのかを分析し,それを克明に表現せねばならないのです。だから,登場人物は,料理に関しては素人という設定であったとしても,「快感の交響曲」の松原や「玄妙極まりない」の盛口のように,なにやら味の専門家的なことばをしばしば放つのです。
読者もまた,そのような登場人物たちによって繰り広げられるうんちくを楽しみにしています。紙面に繰り広げられる美食の数々が,はたしてどのような味わいをもたらすのか知りたいのです。
この時点で『美味しんぼ』の登場人物は,テレビでおなじみのグルメレポーターと同じ役割を担うことになります。おいしいとしか表現できないレポーターは用をなしません。視聴者をいらだたせるだけです。これと同様に,『美味しんぼ』の登場人物は,描かれた最高の料理を味わうことのできない読者のために,大げさになろうとも,芝居がかろうとも,どのようにおいしいかを伝えねばならないのです。
このように,漫画におけるおいしいことばの表現ストラテジーは,おいしいものはためらわずにおいしいと表現する「食卓自然主義」派と,グルメのうんちくをたっぷり聞かせる「読者志向型食通的説明」派の(少なくとも)ふたつに分かれるのです。
それにしてもやはり興味深いのは,食通的説明型の漫画では,現実にはありえない大げさな表現でも読者がそれを望んでいるならそれなりに自然に聞こえる,という事実です。もとより,フィクションの言語にはうそがつきものです。そして,そのうそをまことしやかに伝える機構がフィクション作品には存在するはずです。
それはいったいどのようなものでしょうか。
次回は,そのフィクションの機構について,もう少し掘り下げてみます。