『かわいい子』を演じていながら,演じている様子を決して見せない『猛禽』。その正体を見抜けるのは同性の直感だけだが,同性が時に自身の直感を疑わねばならないほど『猛禽』の演技は隙がなく完成されている。男たちは『かわいい子』だと手もなくだまされ,籠絡されて骨抜きにされる。「この人を」と狙われたら,もう逃げられない。それが『猛禽』の『猛禽』たるユエンである(前回)。
それだけに「猛禽」という語も,おだやかな成り立ち方をしてはいない。語「猛禽」は,「モノがあるからそれを指し示すことばがあるだけ」というテイを装いながら,その実,『猛禽』キャラを喝破し,暴き立て,世に告発することばである。世の中には実は『かわいい子』の皮をかぶった,『猛禽』というおそろしいキャラがあるのです,だまされてはいけません,あの女は皆が思っているような『かわいい子』ではなく『猛禽』なんです,『猛禽』よ,もうこれ以上おまえたちの好きにはさせないぞと戦うことばである。
「猛禽」という語を口にして『猛禽』と戦うのは,もちろん江古田ちゃんたち,すなわち『かわいい子』ではなく,『かわいい子』を演じようとしても演じられない,普通一般の娘たちである。そして私などはこの背後に,涙なくしては語れない,普通娘たちの悲しい物語を感じてしまうのである。要塞攻略のたとえを出して,このことを説明しよう。
敵の要塞に兵隊が突撃する。要塞から銃撃され,突撃兵の第一陣は皆倒れる。その死体を乗り越えて第二陣が突撃するが,やはり皆撃たれて倒れる。さらに第三陣が倒れる。第四陣が倒れる。死体が積み重なり,積み重なり,累々と積み重なって,ついには要塞の壁の高さに達する。つまり壁を越える「土台」ができあがる。「土台」を駆け上がって,何万人目かの突撃兵が要塞内部に攻め入る。難攻不落と思われた要塞への反撃はこうしてようやく始まる。
「猛禽」という語が成立した背景にも,これと似たことを感じてしまう。私があこがれている男は,私ではなくあの女に夢中である。あの女が現れるだけで男どもの目は私を素通りしてしまう。カレをあの女にあっさりさらわれた,云々。社内の女子化粧室で,女子会で,ラインで,こうした一人一人の普通娘の不幸(一人一人の兵隊の死)が日々語られていくうちに,個々の「あの女」の人物像が重ね合わされ,タイプとして少しずつ浮かび上がってくる。あの女は本当に『かわいい子』なのか。そう思って諦めるしかないのか。一つ一つの事例には何のボロも見えないが,点と点がつながり,あの女のプロファイリングが進むにつれ,微妙な違和感も徐々に集積されていく。これが一線を越えた時(「土台」完成時),ついに直感が勝利を収め,確固とした信念が生まれる。あの女が『かわいい子』であってたまるものか。やりやがったのだ。
たとえばどこかの飲み屋で,どこかの普通娘の「あの女に出し抜かれた」話を聞かされた時に,それは起きる。「その手の女って,絶対,計算だよね」と言い切った自身のことばに触発され,江古田ちゃんの頭に天啓が訪れる。「ほらあの,猛禽みたいなの」とことばが続いて「キャハハ,猛禽! それいいね」と仲間に受け,これまでやられっぱなしだった普通娘たちがようやく武器を一つ身につけたと,そういう「哀史」を感じずにいられないのは私だけだろうか。
兵士たちの死に,合掌。(続)