語には「語がある以上,その指示対象もちゃんとあるはず」と思わせる力があり(前々回),そのことは特にモノを表す語に顕著に見られる(前回)。つまり,「坊っちゃん」や「お嬢様」のような語(キャラクタのラベル)には,「ことばがある以上,そういうキャラクタもちゃんとあるはず」と思わせる強い力がある。
このことをまざまざと感じさせてくれるのは,瀧波ユカリ氏のマンガ『臨死!! 江古田ちゃん』(講談社)にたびたび現れる,「猛禽」(もうきん)というキャラクタのラベルである。
このことばが指し示している『猛禽』キャラとはどのようなキャラクタなのか? 主人公の江古田ちゃんたちによれば,それは「走ればころび,ハリウッド映画で泣き,寝顔がかわゆく,乳がでかい」(第1巻5頁)という,世の男性にとって魅力的な諸特徴を備えた一種の『娘』キャラで,「狙った獲物(男性)は決して逃がさない」(第1巻5頁)というところから,ワシやタカなどの猛禽類にたとえられてこの名が付いている。下位類としては妹のような『妹猛禽』(第1巻125頁),一見猛禽らしくない『かくれ猛禽』(第4巻55頁・第5巻56頁)などがある。
なんだ,『ぶりっ子』のことじゃないかと思われた方もいるかもしれないが,江古田ちゃんに言わせれば『ぶりっ子』と『猛禽』は別物である。「ひと昔前に生息していた「ぶりっこ」は 時がたつにつれ 男共に ことごとく本性を見抜かれ ぜつめつした」「そして試行錯誤の末 新たに誕生した「猛禽」は 我々の予想を はるかにこえる 完成度をほこっている」「聞き上手で」「下ネタにも寛容」「ほっとかれてもふくれず」「ブサイクにもやさしい」(第1巻25頁),「ことりの声に耳をすまし」(第1巻74頁),喧嘩を見れば「ショックで立てない」(第1巻117頁)という。
つまり,『二枚目』キャラを演じようとする意図を露呈させてしまった者が『二枚目』キャラになりおおせず,『キザ』キャラという破綻キャラ(本編第74回・第75回)に認定されてしまうように,『ぶりっ子』は『かわいい子』を演じようとする意図を周囲に感知させてしまっているため『かわいい子』ではなく破綻キャラ『ぶりっ子』としてしか認知されない(そして今日では絶滅した)。それに対して『猛禽』は,『かわいい子』を演じようとする意図がその言動に決して現れないという。
では,そのような『猛禽』が『猛禽』であって『かわいい子』でないという証拠はどこにあるのか? 演じようとする意図が言動に決して現れないなら,『猛禽』とは正真正銘の『かわいい子』ではないのか? それを認めず『猛禽』などと言い立てているのは単なるヒガミではないかと,江古田ちゃんは周囲から白眼視される(第3巻85頁)。いや,それどころか江古田ちゃん本人も自信を失い(第1巻25頁),『猛禽』は本当に『猛禽』か,どこまでが計算なのかと悩むことさえある(第1巻54頁)。
しかし結局のところ江古田ちゃんの直感は間違っていなかった。男たちからチヤホヤ介抱してもらうことを狙って,酒に酔いつぶれた演技をしたものの,当てが外れて男たちはソソクサと帰ってしまったが,今さら演技をやめるわけにもいかず困っているという『猛禽』の様子が(登場人物のセリフではなく)地の文で「ひっこみがつかない」と記述されることによって,(少なくともこのマンガ世界の)真実が明らかにされる(第3巻97頁)。『猛禽』はやはり『猛禽』であったのだ。
ちなみに,この『猛禽』は「翼の折れた猛禽」と記されている。(続)