語には,「なんかそういうのがこの国にはちゃんとあるんだ」と思わせる力がある。前回はこのことを,松平定信がでっち上げた語「信牌」を例にとって述べた。
「語(内容語)がある以上,その指示対象もちゃんとあるはず」という私たちの思いを揺さぶるアヤシイ事例は他にもある。語というよりは慣用句と言うべきかもしれないが,次に挙げるのは山本周五郎の『寝ぼけ署長』の一節である。
「署長さんはどうしても転任ということになるんですかなあ」渡辺老人がふと溜息(ためいき)をつきながら云いました,「お上(かみ)の事だとするとどうも仕方のない事なんでしょうが,やっぱり世の中は雨降り風間,そういった感じのものですなあ」
渡辺老人の言葉はなんでもない平凡なものですが,私はふと署長が最もこころよく受取るのはこういう表現ではないかと考えました。[中略]――世の中はやっぱり雨降り風間ですな,はっきりした意味はないながら一種の淡い哀愁の匂(にお)いのある,こんな別れの言葉こそ署長にはいちばん相(ふさ)わしい,私は独りでそんな考えに耽(ふけ)っていました。[山本周五郎『寝ぼけ署長』1948]
冒頭で渡辺老人が発している「世の中は雨降り風間」とは,世の中が思うようにならないことを天候にたとえて述べたもの,というような考えは,ここでは無用である。語り手はこのことばを「はっきりした意味はないながら一種の淡い哀愁の匂いのある」ことばと断じている。少なくともこの語り手によれば,人間ははっきりした意味を表そうとしてではなく,「匂い」で語句を発することがあるようだ。
と,述べたところで告白しておきたいのは,私が山本周五郎の小説にたびたび現れる或る語句を理解できていないということである。それは「肩をゆり上げる」ということばで,氏の小説にはたとえばこんな具合に現れる。
去定は自嘲とかなしみを表白するように,逞(たくま)しい肩の一方をゆりあげた,「――現在われわれにできることで,まずやらなければならないことは,貧困と無知に対するたたかいだ,貧困と無知とに勝ってゆくことで,医術の不足を補うほかはない,わかるか」
[山本周五郎『駈込み訴え』1958]
――このおれがかい,へっ。
猪之はそう云って,肩を揺りあげただけであった。[山本周五郎『三度目の正直』1958]
土田は稽古着に着替えながら,なにがあったのかと,安川大蔵に訊(き)いた。安川はただ肩をゆりあげただけであった。
[山本周五郎『饒舌(しゃべ)り過ぎる』1962]
「肩をゆり上げる」とは,まさか英語話者などがやらかすシュラッグ(shrug)ではあるまい。いったい,どんな動作だろうと思っても,この言葉は私が調べたどの辞書にも載っていない。それでも「肩をゆり上げた」とある以上は「なんかそういうのがこの国にはちゃんとあるんだ」と納得して私は山本氏の小説を読み進んでいる。が,時には,氏が「はっきりした意味はないながら」「匂い」で作られた言葉だろうかと疑ってみることもある。いずれにせよ,「匂い」の部分は私の中にも勝手にできあがってきた。次のような例に出くわすと,子供のくせに,大人ぶって肩をゆり上げて,なかなかやるじゃないかと感じてしまう。
「そんなことをしていて,役人に捉(つか)まりゃあしないか」
「悪いこともしねえのにかい」子供は小さな肩を揺りあげ,ふんと鼻をならした,
「たいてえの役人とはもう顔馴染(なじみ)なんだぜ,箱根の関所なんぞ役人のほうから挨拶(あいさつ)してくれるよ」[山本周五郎『おさん』1961]
「肩をゆり上げる」は『大人』キャラの動作を表す表現だ,という説明は一切受けていないのに,である。考えてみると,私たち日本語母語話者が子供の頃に日本語の語彙を学んできた典型的なパターンとは,こういうものなのかもしれない。
という具合に,「語句がある以上,その指示対象もちゃんとあるはず」という私たちの思いにひっかかることばは,「肩をゆり上げる」のように,動作を表す語句の中にもないわけではない。しかしながら,圧倒的に多くは,「信牌」のような,モノを表す語句である。『坊っちゃん』や『お嬢様』のようなキャラクタのラベル,つまりキャラクタという一種のモノを表す語句を取り上げる段階に至って初めて,「語句がある以上,その指示対象もちゃんとあるはず」という私たちの思いを取り上げたのは,そういうわけである。