日露両国の国家としての交渉史の始まりとして,司馬遼太郎は,ロシア皇帝の使節ニコライ・ペトローヴィチ・レザノフの来航を挙げている。
レザノフは,
「信牌(しんぱい)」
というものを持ってきている。
わずか十二年前に,シベリア総督の使節アダム・ラスクマンが箱館にきたとき,時の老中松平定信は公使級の人物(目付石川忠房ほか)を箱館に派遣し,ラスクマンの当面の要望はしりぞけつつも,態度はあくまでやわらかく,
――ぜひとも通商をしたいというのなら,こんどは長崎に来よ。それについては信牌(長崎港の入港許可証)をあたえる。
としてそれをわたし,アダム・ラスクマンをよろこばせた。
このたびレザノフが長崎に来航したのは,その信牌があったからである。[司馬遼太郎1982『菜の花の沖』五,文春文庫,p. 191.]
だが,日本側はレザノフが持参した国書も贈り物も受け取らず,レザノフから信牌を取り上げてしまった,レザノフは長崎港内で半年も待たされたあげく,要領を得ない応接ののち追い返されるようにして去った,とある。
これでは「信牌」の意味がないではないか。いったい「信牌」とは何だったのか。司馬遼太郎は次のように記している。
信牌などというものは幕府の慣習には,もともとない。そういう日本語すら,それ以前になく,それ以後にもない。松平定信が,アダム・ラスクマンに与えたきりで,実体もろとも言葉も消えた。
つまりは松平定信という人物の高度な政治判断の所産であった。[司馬遼太郎1982『菜の花の沖』五,文春文庫,p. 191.]
げにおそろしきは老中定延,いや定信。命を受けた使節がラスクマンの面前で,しかつめらしく眉をゆがみ踊らせ,鼻うごめかして「シンパイを,さずけるものである」なんてオゴソカに言い渡すところが目に浮かぶではないか。
え,シンパイ? 何それ? ラスクマンの目が泳いで,渡された書状にたどり着く。「信じる」の「信」に,「位牌」「紙牌」の「牌」ですな,どうも通行手形のようなもののようです,と傍らの通訳がささやく。
あ,そうなの? そっか。そうなんだ。シンパイっていう,なんかそういうのがこの国にはちゃんとあるんだ。やだもう,オレいきなり長崎のシンパイもらっちゃったよ。
――みたいにラスクマンが喜んだというのは,もう定信の計略にスックリはまっているのである。
この状況で「あなた達がですね,今度,長崎港に来られたらですね,その時は,入れてあげましょう。そのこと,一筆書いときましたから」などと言われても,その「一筆」がどの程度効くのかという疑念は晴れなかっただろう。ラスクマンはすんなり帰らず,そこで一悶着あったかもしれない。そうならなかったのは、少なくとも部分的には、定信が「シンパイ」という語をでっち上げたおかげである。シンパイにかぎらず、語には「なんかそういうのがこの国にはちゃんとあるんだ」と思わせる力がある。
あ,申し遅れました。長々と「表現キャラクタ」について補足してきたもんで(補遺第35回~第68回),ここらで目先を変えて、『坊っちゃん』『お嬢様』のような「キャラクタのラベル」の補足をしようと思って,その準備をやってます。悪しからず。