日本語社会における文化的制約の3種のうち,「掟」と「マナー」を観察してきた(補遺第52回~)。最後に「お手本」についても手短に述べておこう。
「掟」が「こんなことをしてはいかん!」というもの,「マナー」が「これをやるならこのようにやるべし」というものであるのに対して,「お手本」は「これをやるならこのように……できたらいいなあ」と仰ぎ見るもの,目標とするものだということ,「お手本」から外れても非難・白眼視されないし,実際のところ大抵の人は「お手本」から大なり小なり外れているということは既に述べた(補遺第53回)。このことを反映して,「お手本」関連のことばは,「あでやかに舞う」の「あでやかに」,「しとやかにほほえむ」の「しとやかに」,「しなやかに歩く」の「しなやかに」,「たおやかに生きる」の「たおやかに」そして「粋に着こなす」の「粋に」など,「お手本」に合致していることを表すプラス評価のことばばかりである。
たしかに,「凡庸」な踊り,「どうということもない」振る舞いといったものはある。だが,それらは踊りや振る舞いのありさまを形容してはいるが,踊り手や振る舞い手の人物像を特定する力は弱い。たとえば「あでやかに舞う」と言うだけでたちまち『上品な女』の舞姿が浮かぶのとはだいぶ違う。このことからすれば「凡庸」「どうということもない」などは,ここで考えている「キャラクタ動作の表現」(動作を表す際に,その動作の行い手のキャラクタまで暗に示す表現)には含めない方がいいだろう。
と,文化的制約を長々と紹介してきたのは一体何のためかというと,キャラクタを論じる上で重要な観点である「品」の実体を明らかにするため(補遺第51回)であったのだ。そして,これまでの観察からすれば,『上品』『下品』そして「品」は次のようにとらえられる。
『上品』とは,「当該社会が課す文化的制約から逸脱せず,その中におとなしく,慎み深く,控えめにおさまるが,その行動はあくまで自由で美しく見え,制約を感じさせない」ことだとこれまで述べてきた(本編第60回)。この文化的制約とは何よりも「お手本」である。「お手本」に無理なく収まる以上は「マナー」にもすんなり合致するが,意識されるのはあくまで「お手本」だろう。他方,「掟」は必ずしも守られない。何不自由のない環境に「ぬくぬくと」おさまり,「のうのうと」生きる反社会的な人物があくまで『上品』な物腰で「ぬけぬけと」悪事をなし,「いけしゃあしゃあと」言い抜けるということは現実にも少なくないようだし,またフィクションにおいても,ピカレスク小説の主人公である悪人は,しばしば怪盗紳士・淑女のように『上品』である。
『下品』とは「『上品』でない」ことだとこれまで述べてきたが,ここで取り沙汰される文化的制約とはまず「マナー」であって,「お手本」から外れたとしてもそれは必ずしも『下品』ではない。他方,「掟」は「マナー」と絡む形で重要なポイントとなる。たとえば共用スペースを初めて使う者が,周囲の迷惑にならないよう静かに使おうとしてうまくいかず,結果的に「がたがた」してしまうという場合,この人物は『下品』ではない。『下品』なのは,周囲の迷惑にならないよう静かに使おうというきもちがいつのまにか疎かになっていたり,そもそも無かったりして「がたがた」する場合である。つまり或る人物が『下品』であるとは,その人物が「マナー」に違反しており,かつ,その「マナー」違反が,「意識していなければならないはずの「マナー」を十分に意識していない」あるいは「持っていなければならないはずの「マナー」をそもそも持ち合わせていない」という「マナー」に関する「掟」への違反(つまりは無神経)によるということである。
このように『上品』と『下品』は,文化的制約の1種において対立しているわけではない。「品」とは3種の文化的制約の全てに関わる,複雑なものと言うことができる。