『カナノヒカリ』昭和2年(1927)3月号の誌面にて結果が発表されたカナモジカイの「ヨコガキ カタカナ 活字字体考案懸賞募集」。三省堂でベントン彫刻機による新書体開発のための研究に取り組んでいた桑田福太郎と松橋勝二は、それぞれカナモジ書体をデザインして応募した。結果は、松橋の作品は最終選考どまり。桑田の作品は選外だった。
しかし三省堂の今井直一は〈そのとき桑田のデザインした「かな」は異色のあるもので、後にコンサイス英和辞典に永く実用された、いわゆる桑田式カナモジである〉とのべている。[注1]
桑田式カナモジについては、カナモジカイの機関紙『カナノヒカリ』昭和3年(1928)12月号に掲載された「サンセイドウ ト カナモジ」に詳細をみつけた。記事では、三省堂がカナモジ運動にも力を注いでいることにふれたうえで、「桑田式横書カタカナ活字」を紹介している。
記事によれば、三省堂は辞書や横組みの本の印刷につかうため、昭和3年(1928)2月に横書きカタカナの活字をつくったという。考案者は桑田福太郎。以前、カナモジカイの懸賞募集に出した書体をもとに、三省堂の永井茂弥の意見をとりいれ、さらに工夫をくわえて制作された。
桑田式カナモジは、大きさが縦2:横1の割合でつくられている。つまり、活字を2つ横にならべると、漢字1字分のスペースと一致するつくりになっているという。[注2]
この活字は、昭和3年(1928)6月に発行された『原色高山植物』(山川黙著、三省堂)のキャプションや索引などにもちいられている。『原色高山植物』は高山植物について写真をまじえて解説した、うつくしい装丁の本だ。
桑田式カナモジは、以降、『コンサイス英和辞典』に採用され、ながくつかわれた。
ところで、桑田式カナモジの母型は、どうやってつくられたのだろうか。
三省堂の書体研究室がベントンによる母型の試刻をはじめたのは大正15年(1926)とされる。[注3]とすると、桑田式カナモジの母型は、ベントン彫刻機による彫刻母型かもしれない。なお、三省堂はベントン彫刻機でもちいる原型(パターン)の製造方法を途中から腐蝕法にしており、腐蝕による桑田式カナモジのパターンについては、昭和10年(1935)11月29日から同年12月14日にかけて、わずか2週間程度で製作されたという記録がのこっている。[注4]
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「サンセイドウ ト カナモジ」の記事ではもうひとつ、三省堂の「カナモジタイプライター」についてふれられている。カナモジカイは、横書きカナを普及させるには、カナモジタイプライターをひろめることが有効だとかんがえていた。当時まだカナモジタイプライターは高価だったため、三省堂は一般のひとが手にとりやすい、手ごろな価格のカナモジタイプライターをつくりたいとかんがえ、機械の考案製作に骨をおっていた。それが昭和3年(1928)9月のはじめに見本が完成し、9月10日に開催されたカナモジカイの集まり「カナ ノ ユウベ」で披露したという。このタイプライターの重さは3.42kg、文字のおおきさは12ポイントほど。
ただし、三省堂ではこのタイプライターによって日本の文化をすすめたいというかんがえで製作したもので、自社で販売することはかんがえておらず、引き受け手をさがしているため、市場に売り出されるのはすこし先になるとおもう、と記事には書かれている。[注5]
これを受けてのことだろうか、同年12月2日に開催された「カナモジ カイイン大会」にて、三省堂は「カナモジカイに常に力ぞえをしている」として、仁丹本舗(現 森下仁丹)森下博や服部時計店大阪支店などとともに、感謝状がおくられた。
(つづく)
[参考文献]
- 「サンセイドウ ト カナモジ」『カナノヒカリ』第84号 昭和3年12月号(カナモジカイ、1928)
- 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)
- 『三省堂ぶっくれっと』No.103(三省堂、1993)
[注]