1872年8月10日、『Scientific American』誌は、ショールズのタイプライターを1面で取り上げました。デンスモアにしてみれば、ローデブッシュの事務所を、ハノーバー通りに移したのは大正解でした。人目をひくタイプライターのショールームを、『Scientific American』誌が取材したのです。
この記事を機に、デンスモアのタイプライター売り込みは、どんどん熱を増していきました。シカゴ最大の電信会社であるウェスタン・ユニオン・テレグラフ社にも、ポーターのツテを辿ってセールスに行きました。ウェスタン・ユニオン・テレグラフ社の総支配人で、北軍の電信総責任者だったステイガー大佐(Anson Stager)への売り込みを、デンスモアは後にこう回想しています(『The Phonographic World』1886年9月号)。
大佐のオフィスは、当時、シカゴのウェスタン・ユニオン・テレグラフ社の広大な送受信室のすぐ下の階にあった。オフィスの両端に配置された2台の机の上に、モールス送受信機がそれぞれ置かれており、その間を何マイルかの長さの電信線がトグロを巻いて繋がれていた。ポーターはタイプライターを持って片方の机に座り、大佐はもう一方の机に座った。大佐は、昔は第一級の電信士だったが、それはあくまで若い頃の話で、もう何年も前にプロの電信士を退いていた。新聞を手元に置いた大佐は、記事の一段落を送信する準備を整えた。ポーターは、受信用音響箱をタイプライターに取り付け、大きな声で叫んだ。
「準備完了、大佐!」
大佐は、かなりゆっくり送信しはじめた。それはあたかも、そのスピードで送信しなければ、ポーターが受信しきれないだろう、とでも考えているかのようだった。しかし、最初の行をタイプし終わらないうちに、ポーターはこう告げた。
「もっと速く、大佐!」
大佐はさらに速く送信した。しかし、すぐにポーターは叫んだ。
「もっと速く、大佐!」
大佐は自身の最高スピードで送信した。しかし、ポーターは再び叫んだ。
「もっと速く、大佐!」
大佐は送信の手を止め、鈴を鳴らして給仕を呼んだ。給仕が現れると、大佐は告げた。
「スミスに、ここへ降りてくるように、と」
ステイガーは、電信業務におけるタイプライターの可能性を理解しました。ただ、ステイガーが社長を兼任しているウェスタン・エレクトリック社には、タイプライターを生産する技術力はありませんでした。タイプライターを大量生産できる企業が見つかったならば、ぜひ、ウェスタン・ユニオン・テレグラフ社にも売ってほしい、前金で10,000ドル出したってかまわない、それが、ステイガーからデンスモアへの提案でした。デンスモアは、タイプライターを大量生産できる企業を、何としても見つけ出さねばならなくなったのです。
(ジェームズ・デンスモア(14)に続く)