1872年12月、デンスモアは、ヨストをミルウォーキーに招きました。すでにデンスモアは、「The American Type Writer」を何台かヨストに見せていましたが、さらに、ミルウォーキーでの製造工程をヨストに見せることで、ヨストに量産化の手立てを考えてもらおうとしていたのです。運河沿いのグリデンの工房で、ショールズやシュバルバッハ(Matthias Schwalbach)に設計の詳細な説明をしてもらい、全ての部品の製作作業を実際に目の前でおこなうことで、タイプライターの製造工程をヨストに理解してもらおうとしたのです。ヨストは、タイプライターの製造工程のみならず、各部品に必要な工作精度を、実際に部品を作り直して確かめたりした上で、一つの結論を下しました。このタイプライターは、ヨストのコリー・マシン社やアクメ・モーワー&リーパー社の技術では量産化できない、と。
そもそも、コリー・マシン社は石油タンク車の製造に、アクメ・モーワー&リーパー社は草刈機や収穫機の製造に、それぞれ特化して設立した会社です。いずれの会社も、大型機械をそれなりの工作精度で製造することが主眼なので、そのための技術者や工作機器を配備していて、タイプライターのような小型機械の製造には、必ずしも向いていないのです。確かに、それはデンスモアにも理解できました。では、たとえコリーがダメだとしても、シカゴやセントルイスのような大都市に、タイプライターを量産できる企業はないのでしょうか。ヨストには、一つ、思い当たる企業がありました。ニューヨーク州イリオンのE・レミントン&サンズ社でした。
デンスモアは、社長のレミントン(Philo Remington)に会うべく、タイプライターで手紙を書くことにしました。デンスモアの知る限り、E・レミントン&サンズ社の主力商品は、銃でした。南北戦争中は、大量のリボルバーを北軍に納入し、その結果、大きくなった企業です。銃に次ぐ主力商品は農業機械で、その意味では、ヨストやデンスモアにとってライバル企業とも言えました。さらに南北戦争後は、ミシンの製造も始めていました。E・レミントン&サンズ社には、いくつか子会社があって、農業機械の製造と販売は子会社のレミントン・アグリカルチュラル社が、ミシンの製造と販売は子会社のレミントン・ソーイング・マシン社が、それぞれ担当していましたが、いずれの子会社も製造工場そのものは、親会社と同じイリオンにありました。そのような大会社の社長レミントンに、デンスモアは、タイプライターで書いた手紙を送ったのです。
(ジェームズ・デンスモア(15)に続く)