1873年2月、デンスモアとヨストは、イリオンにいました。バッファローからニューヨーク・セントラル鉄道をハーキマーまで行き、ハーキマーからエリー運河を渡ってすぐのところに、イリオンの町はありました。イリオンは、銃とミシンの生産で繁栄を極める企業城下町でした。ここで、デンスモアとヨストは、レミントンに、タイプライターのプレゼンテーションをおこなうことになっていました。デンスモアは、タイプライターの最新モデルではなく、安定して動作するやや古いモデルを、イリオンに持ち込んでいました。
デンスモアがタイプライターで書いた手紙は、レミントンの興味を強く引いたらしく、E・レミントン&サンズ社側は、社長のレミントン、取締役のベネディクト(Henry Harper Benedict)、技師長のクロー(Jefferson Moody Clough)、技師長補佐のジェンヌ(William McKendree Jenne)の4人が、デンスモアを待ち受けていました。一方、デンスモアは、ショールズをイリオンに連れてくることができず、ヨストと二人でイリオンに来ていました。この時のことを、ベネディクトは後にこう回想しています。
デンスモアは、我々の見た限り、あまり雄弁ではなさそうだった。デンスモアは「モーセに対するアロンとして」ヨストを連れてきた、と説明した。実際ヨストは、私の知る限りで、最も説得力のある話し手の一人であり、その舌は疲れを全く知らなかった。
デンスモアとヨストは、当時はスモールズ・ホテルとして知られていたオスグッド・ハウスの一室で、彼らが持ってきたモデルを、実際に我々の前に出してきて動かして見せた。この会合に出ていたのは、レミントン社長、クロー技師長、ジェンヌ技師長補佐、デンスモア氏、ヨスト氏、そして私だった。我々はその機械をよく吟味し、さらには1時間半か2時間ほど議論して、その後、一旦、彼らと別れて、昼食だったか夕食だったかに向かったと思う。スモールズ・ホテルの部屋を出る際に、レミントン社長が私に尋ねてきた。「あれをどう思う?」私は答えた。「あの機械は非常に粗雑なものですが、将来、ビジネスに革命をもたらすだろうアイデアを秘めています」社長はさらに尋ねた。「話に乗るべきだと考えるかね?」私は言った。「追い返す理由など全くありません。彼らに対し、我々がこの発明に心酔しているなどと言う必要はありませんが、ほとんど心酔してしまっている自分に、私自身驚いています」
(ジェームズ・デンスモア(16)に続く)