1871年10月、デンスモアはセントルイスにいました。ウェラーを再び頼って、セントルイス・フェアに、新たなタイプライターを出品展示したのです。前年より反響もあって、地元の新聞に取り上げられたりもしました。1871年10月12日の『Morning Republican』紙を、拾い読みしてみましょう。
セントルイス・フェアの珍しい品々の中に、「The American Type Writer」と名づけられた風変わりな機械があった。この機械は、活字による謄写を作成するものであり、オペレーターがオルガンあるいはピアノに似たキーボードを叩くだけで、所定の効果を得られる。発明者によれば、この機械は、いかなる種類の高速な書き取りにも使用可能で、特に、商用の通信文、聖職者、写真家、作家、編集者、法律家、そして多くの文章を書く人々全てに有用だという。この風変りな機械で書かれた見本紙は、一日中、物好きな人々へと配り続けられ、大博覧会の思い出として各家庭へ持ち帰られた。
6日間に渡るセントルイス・フェアの間じゅう、デンスモアはタイプライターを叩き続けたようですが、それでも商談はうまくいかず、タイプライターを製造してくれる会社は見つかりませんでした。
コリーに戻ったデンスモアは、ヨストが新たに設立したアクメ・モーワー&リーパー社の特許紛争を、解決すべく奔走することになりました。ヨストは元々、コリーのクライマックス・モーワー&リーパー社に技術供与していたのですが、新たにヨスト自身がアクメ・モーワー&リーパー社を設立したため、特許関係が複雑になってしまっていました。デンスモアは、ヨストの特許を、すでにアクメ・モーワー&リーパー社に譲渡手続していましたが、それらの特許が成立しないうちに提訴がおこなわれ、クライマックス・モーワー&リーパー社との間で紛争になってしまったのです。しかも、クライマックス・モーワー&リーパー社はペンシルバニア州の会社でしたが、ややこしいことに、アクメ・モーワー&リーパー社はニューヨーク州の会社として設立されていました。この結果、双方の特許に関して、裁判所の管轄をめぐり、いきなり対立するという泥沼の争いとなりました。さらには、これらの特許訴訟に加え、ヨストに対する偽証罪まで提訴され、代理人のデンスモアは、コリーとニューヨークを何往復もする羽目になったのです。
ただ、デンスモアは、これらの裁判に提出する書類は、タイプライターを使わず、全て手書きでした。特許申請書やそれに付帯する書類も、全て手書きでした。デンスモア自身にとっても、大文字しか打てない「The American Type Writer」は、まだまだ、現実のビジネスに使えるようなものではなかったのです。
(ジェームズ・デンスモア(13)に続く)