自宅のあるウッドコック・クリークと、オイル・クリーク、コリー、ミルウォーキー、シカゴとの間を忙しく飛び回る中、デンスモアはニューヨークにも出向きました。ローデブッシュが、セダー通りにあった事務所を、隣りのパイン通りに移した、との連絡を受けたからです。パイン通りは、セダー通りの一つ南の通りで、ウォール街のすぐ北に位置するのですが、しかし、あまり広い通りではありません。とりあえず、タイプライターの試作機を持ち込んで、ショールームっぽくしたものの、デンスモアは、パイン通りの新しい事務所が気に入りませんでした。もっと広い通りに面した事務所を探すよう、ローデブッシュに持ちかけたのです。
さらにデンスモアは、ブロードウェイ64 & 66番地のオートマチック・テレグラフ社を訪ねました。社長のハリントンのもと、オートマチック・テレグラフ社は、ニューヨーク~ニューアーク~トレントン~フィラデルフィア~ボルチモア~ワシントンDCでの電信業務を開始していました。オートマチック・テレグラフ社は、ショールズのタイプライターを業務に使用すべく、実地にテストを続け、改良すべき点をショールズにフィードバックしていました。デンスモアの見る限り、ライバルのエジソンは、約束の『タイプホイール式ユニバーサル・プリンター』を開発しきれていないようでした。オートマチック・テレグラフ社に、エジソンの試作機が見当たらなかったからです。
1871年8月29日、プラテンに関するショールズの特許(United States Patent No.118491)が成立しました。特許代理人は、もちろんデンスモアでした。実はデンスモアは、この特許以外にも、ショールズから特許申請書を受け取っていたのですが、あえて、それらの特許を成立させていませんでした。とりあえず一つでも特許を成立させておけば、特許使用料の請求には十分だからです。翌1871年9月、オートマチック・テレグラフ社は、ショールズのタイプライターを、電信業務に採用しました。デンスモアはショールズに、タイプライターの増産を指示し、ローデブッシュの事務所を経由して、オートマチック・テレグラフ社に納入するよう手はずを整えました。一方のローデブッシュは、パイン通りの事務所を、今度はハノーバー通りに引っ越しました。ハノーバー通りの新しい事務所は、人通りの多い三叉路に面していて、やっとデンスモアも納得したようでした。
(ジェームズ・デンスモア(12)に続く)