1870年10月3日、デンスモアはセントルイスにいました。ミシシッピ川に面する港湾都市セントルイスは、石油ブームの活況に沸き立っていました。「オイル・シティ」から西へ向かう蒸気船は、ピッツバーグからシンシナティへとオハイオ川を下り、さらにミシシッピ川を遡ってセントルイスへと至ります。セントルイスで石油樽は、貨車に積み換えられ、パシフィック鉄道を西へ、サンフランシスコを目指すのです。もちろんオイル・クリークから、アトランティック&グレート・ウェスタン鉄道を西に向かうルートもあるのですが、ミシシッピ川を渡る鉄道橋は、当時、ロックアイランドとクリントンとクインシーにしかなく、セントルイスの鉄道道路併用橋(Eads Bridge、橋長2000ヤード)は建設中でした。ある意味、ミシシッピ川によって、アメリカ合衆国は、東部と西部に分断されていました。その意味で、ミシシッピ川の西岸に位置する港湾都市セントルイスは、東部から西部への玄関口だったのです。
デンスモアは、ウェラー(Charles Edward Weller)というショールズの友人を頼って、セントルイス・フェアにタイプライターを出品展示していました。セントルイス・フェアは、セントルイスの農業機械業組合が毎年開催する見本市で、第10回見本市が10月8日までの開催でした。このセントルイス・フェアへの出品展示に際して、デンスモアは、セントルイスのファイヤー・アラーム&ポリス・テレグラフ社に勤めるウェラーを頼り、推薦状を書いてもらったのです。すでにウェラーのもとには、タイプライターの試作機が何台かショールズから届いており、ウェラーは推薦を快諾してくれました。
ただ、セントルイス・フェアに出品展示はできたものの、タイプライターに興味を示す会社は、なかなか現れませんでした。物珍しさもあってか、観衆の受けは良かったのですが、いざ商談となると、うまくいかないのです。デンスモアとしては、タイプライターを売り込むと同時に、セントルイスでタイプライターを製造してくれる会社を探していたのですが、残念ながらその目論見はうまくいかず、6日間に渡ったセントルイス・フェアを終えることになりました。
(ジェームズ・デンスモア(11)に続く)