『枕草子』には、定子が長保2年12月に崩じた事についてはいっさい書かれていません。前々回お話した三条宮での5月の記事が、定子の最後の姿を記したものでした。したがって、『枕草子』では、三条宮の定子と皇子たちのその後については分からないまま、作品が終わっていることになります。
史実によれば、長保2年の8月に定子は再度今内裏に参入しますが、20日程で退出しています。それが一条天皇との最後の別れでした。その4ヶ月後に3人目の御子を出産した直後、わずか24歳で命を落とす定子の運命と、彼女の死が世間に与えた影響については複数の歴史資料に記されています。
『権記』によれば、長保2年12月15日、東西の山にわたって二筋の白雲が現れるという天象が見られ、それは后に関わる予兆を意味していたとあります。また、皇女誕生後、定子の後産が難航し、16日の寅の刻の終り頃(午前5時前)に崩御したことが内裏に伝えられています。その直後、女院詮子が危篤状態に陥り大騒ぎになって、加持祈祷を行ったところ、関白道隆あるいは二条参議(伊周)の霊が現れたという興味深い記事も記されています。定子崩御に対する道長側の人々の受け止め方は複雑だったと思われます。
注目すべきは、定子の死から49日目の長保3年2月4日の記事で、左大臣道長の養子になっていた源成信(23歳)と右大臣顕光の息子藤原重家(25歳)が、突然、三井寺に向かい、一緒に出家していることです。将来有望な若君達の出家は、二人の父大臣はもとより世間の人々をおおいに驚かせました。成信は『枕草子』にも登場する人物であり、かれらの出家には定子崩御が大きく影響しているとも見られます。
『栄花物語』では、「とりべ野」巻の前半に定子の崩御と葬送の記事を大きく取り上げています。藤原道長を理想的人物とし、その栄華を描くことを目的とした作品に定子を大きく扱うのはなぜなのでしょう。作者は道長の定子に対する政治的措置の記述を微妙に避けながら、ひたすら同情の姿勢で中関白家の悲哀を詳細に書き綴ります。すなわち定子の死は、当時、世間の人々が心を動かさずにいられない出来事であり、取り上げるに値する物語的要素を備えていたということでしょう。定子崩御直後の記事を紹介しましょう。
「御殿油近う持て来」とて、帥殿御顔を見たてまつりたまふに、むげになき御気色なり。あさましくてかい探りたてまつりたまへば、やがて冷えさせたまひにけり。あないみじと惑ふほどに、僧たちさまよひ、なほ御誦経しきりにて、内にも外にもいとど額をつきののしれど、何のかひもなくてやませたまひぬれば、帥殿は抱きたてまつらせたまひて、声も惜しまず泣きたまふ。
(「明かりを近くに持って来い」と命じて、帥殿(伊周)が定子の御顔を拝見されると、まったく息のないご様子である。これは大変だと驚いて、お身体を手で探り申されると、もうすっかり冷たくなっていらっしゃった。ああ、とんでもない事になったと動揺している間、僧たちはうろうろ歩き回りながら誦経の声を絶やさず、部屋の中でも外でも何度も額を床につけて大声で祈るが、何の甲斐もなくそのまま亡くなってしまわれたので、伊周は定子をお抱き申し上げて声も惜しまずお泣きになる。)
定子の最期を看取ったのは兄の伊周でした。最愛の妹の死に直面して惑乱し号泣する姿が具体的に記されています。伊周にとって、定子が政治的に重要な人物だったことは言うまでもなく、精神的にも大きな支えだったことは間違いないと思います。
次は、最愛の妻を亡くしてもその葬儀に立ち会うことさえ許されない一条天皇の記述です。
内にも聞こしめして、あはれ、いかにものを思しつらむ、げにあるべくもあらず思ほしたりし御有様をと、あはれに悲しう思しめさる。宮たちいと幼きさまにて、いかにと、尽きせず思し嘆かせたまふ。
(天皇も定子の訃報をお聞きになって、ああ、どんなに辛い気持ちでいらしたか、本当にもう生きていられないように思い沈んだご様子だったのに、といたわしく悲しくお思いになる。宮たちはとても幼くて、どうしているかと、限りなく心配しお嘆きになる。)
天皇の立場上、どうにもならない面があっただけに、悔やみきれない思いが残っていたことでしょう。幼い皇子たちへの父親の思いも切実に感じられます。定子の方も最期まで夫への思い、我が子への思いを遺して旅立って行ったのでした。