『後拾遺和歌集』(第4番目の勅撰和歌集)の哀傷巻は、定子の歌から始まっています。
一条院の御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳の帷(かたびら)の紐に結び付けられたる文を見付けたりければ、内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に、歌三つ書き付けられたりける中に
夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくもいそぎ立つかな
(一条院の時代に皇后宮が崩御された後、几帳の垂れ布の紐に結び付けられていた手紙を見つけたところ、天皇にも御見せくださいというように、歌が3首書き付けられていた、その中に
夜通しお約束したことをお忘れでなければ、私の事を恋しく思われるでしょう。そのあなたの涙の色を知りたいと存じます
誰も知る人のいない現生との別れ路に、今はもうこれで、と心細い気持ちで急ぎ出立することです)
最初の歌は、定子から一条天皇に宛てた遺詠です。道長側の圧力が強くなっていた最終時期、一条天皇と定子はわずかな邂逅の時間を惜しんで夜通し共に過ごしていたのでしょう。その時交わした言葉を支えにしてきた定子が、断ち難い一条天皇への恋情を歌ったものです。
次の歌は、死期の間近な事を悟った定子の辞世歌です。あの世には既に旅立った両親、藤原道隆と高階貴子もいるという考えは定子の心に浮かばなかったようです。それより現世に残していく夫や幼い子供たちの方に、何十倍も心引かれていたのでしょう。どんなに心残りな気持ちだったろうと思います。
さて、『後拾遺和歌集』が採録していない定子の3首目の歌は、先の2首と共に『栄花物語』に記されています。それは、自分の葬儀の方法を示唆するものでした。
煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ(煙にも雲にもならない私の身であっても、草葉に置く露を私だと思って偲んでください)
亡くなった後に煙や雲になるのは、当時一般的だった火葬による葬儀を意味しています。そのようにならないというのは、定子が火葬ではなく土葬を希望したからです。土葬だから、土の上に生える草葉の露を私だと見てくれと言うのです。その言葉に従って、定子は土葬に付されました。
なぜ、定子は火葬ではなく土葬を望んだのでしょうか。それはやはり現世に大きな未練が残っていたからではないかと私は考えます。火葬にされ煙となって天上に消えてしまうより、この世の土に残って子供たちを見守りたいと願ったのではないでしょうか。自分が亡くなった後の事をあらかじめ考え、きちんと伝えることの出来る人だった定子、后として十分な資質が推し量られます。
定子の葬儀は12月27日、年末の冷たい雪の降る日に行われました。『栄花物語』では、伊周、隆家、僧都の君ら、『枕草子』にも登場する同腹の兄弟たちが参列し、次々に悲しみの和歌を詠む様子が描かれています。また同じ頃、葬儀に参列できない一条天皇の様子は次のように記されています。
内には、今宵ぞかしと思しめしやりて、よもすがら御殿籠らず思ほし明かさせたまひて、御袖の氷もところせく思しめされて、世の常の御有様ならば、霞まん野辺もながめさせたまふべきを、いかにせんとのみ思しめされて、
野辺までに心ばかりは通へどもわが行幸とも知らずやあるらん
などぞ思しめし明かしける。
(天皇は、葬儀が今夜だったと思いをはせられ、一晩中お休みにならずに定子の事を思いながら夜をお明かしになり、涙に濡れた袖が凍るのもやりきれない気持ちで、世間一般の火葬であれば、煙に霞む野辺をそれと眺めることができるだろうに、土葬では何の目当てもなくどうしたものかとばかりお思いになり、
葬儀場の鳥辺野まで心だけはあなたを慕って通っていくが、私が訪れたとも気づかないことだろう、などとお思い続けて夜を明かされた。)
定子を見送ることのできない一条天皇の切ない思いが伝わってきます。それから11年後、32歳で崩御した一条天皇が、その三日前、出家した時に詠んだ歌は次のものでした。
露の身の仮の宿りに君を置きて家を出でぬることぞ悲しき(露のようにはかない身がかりそめに宿った現世にあなたを置いて、出家してしまうのは悲しいことです)
これが、現世に残る中宮彰子に対するものではなく、先に、「草葉の露を私と見よ」と歌った定子の遺詠に対応する歌であったという説があるのも頷ける気がします。