漢字の現在

第200回 薄れゆく佐賀の方言

筆者:
2012年7月6日

九州北部の方言が残る金八先生の声で、「人という字は二人の人が支え合っている」と言われると、とくに心に染みる。漢字を使った人生訓は、俗解であっても効果が高いのだが、これも日本らしい漢字の変容の例として生徒さんたちに話す。大学ならば、ついでに「変態」のローマ字表記の頭文字から広まったとされる「H」まで、そうした由来の説を知っているかと尋ねてみるところだ。なんとそこでも「二人の人が支え合って……」と述べる答えが男子学生を中心に返ってくるものだ。いったい何の話だろう。ローマ字にまで俗解を波及する行為も、実は日本では江戸時代にはすでに見られた。

さて、3学期の試験も終わった佐賀市内の中学1年生たちは、文法もアクセントも語彙も共通語化が進展していた。芸能人の「はなわ」に関わりのある中学だとか。この姓は「塙」であり、対となるのが茨城辺りの地域文字「圷」である。もとは関東の人らしい。その歌う歌詞に出てくるヘルメットは、なんのことはない自転車に乗っている子だけだった。牛丼の吉田(野ではない)屋もあの歌の後からできたとの話だ。

塙・圷

生徒さんに「ばってん」について聞いてみる。長崎だけではなく、ここでも使われているが、英語の「but then」起源という珍説は知らないようだった。講演会場では、品のあるご婦人が、オランダからと聞いたことがある、と言って下さった。「よかばってん」は「よいけれども」という意味であり、古くは「よからば(よかれば)とて(も)」に遡れる。形容詞のカ語尾もカリ活用の残存と解される。かつて熊本出身の森高千里が「きれいか」と歌ったのは、「立派か」などと同様、類推による固定化した表現だったのだ。

オノマトペは、「どんどんどん」と3回も繰り返すことはなくなっているようで、生徒たちは2回しか言わないそうだ。「降りよる・降っとる(ちょる)」の進行と完了の差はすでに分からなくなっている。

「雨・飴」は東京と同じように区別して発音している。佐賀市内の方が県内の西部地区よりもイントネーションなどで、いわゆる訛りがあるかとも予測していたが、若年層はそんなことはないようだ。

あるのに「ない」という返事も有名だが、これも知らないそうだ。お父さんお母さん、お祖父さんお祖母さんと会話をしていないのかな、などと心配になってきた。私だって子供のころ、富山の祖母の話はまったく分からなかった。「ママ食うけ?」は、兄と意味を考えて、おやつを食べるかと聞いているのだろうという結論になり、喜んで承諾すると早い時間にご飯が準備されて閉口したことがあった。

時間が短いので、これは話さなかったが、水がかかると「アピ」などと九州人は咄嗟に声を出す、と言ってかつて「探偵ナイトスクープ」で取材していた。興味深い言語行動だが、民俗学の研究成果などはあるのだろうか。

生徒さんたちは、「おっこちる」「おっこっちゃった」とは、さすがに言わないそうだ。「川に落ちた」とか言う生徒さん、さすがと思うが、この市内には意外に川が流れていない。

ちょっとした切り傷などのケガをしたときに貼るのは?

 カットバン

やっと出てきてくれた。気付かない方言、新しめの方言だ。「絆創膏」に関しては、商品名が各地で普通名詞のようになっている。「カットバン」は誰も社名だとは意識していないと皆がいう。祐徳薬品工業(佐賀県鹿島市)の製品で、いかにも漢字圏の薬品業という雰囲気の残る社名だ。なお、久光製薬もこの地の会社だ。「キズバン」という声も出る。

講演の会場では、ご婦人が、バンソウコウは古かったのかと羞じらっておいでだった。カットバンよりも絆創膏のほうが年配そうだと恥ずかしがるご高齢の方々は、もしかしたら県外から嫁いでいらしたのかもしれない。いや、地元での普及の段階を語って下さった可能性もある。

後で、小学校の校長先生(偶然にも私のいる大学と深いゆかりがあった)、教頭先生は、自分たちの代では、まだ上の世代の方々が「どんどんどん」や「ない」(ハイの意)といった方言を使っていたと教えて下さる。伝統的な方言が消えつつある。30歳前の県庁の職員も、佐賀県の東部・西部を「ひがしめ・にしめ」と呼ぶのは聞いたことがないとのことで、予習した文献の記述と現実の差を実感する。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。