漢字の現在

第199回 佐賀と「絆」

筆者:
2012年7月3日

佐賀市内での最後の質問は、女子大生風の人たち2人組の一人だった。「知らない字のことをたくさん知れて良かったが、」という前置きの後に、

 先生が、一番これは、と思った字は何ですか?

これは難問だ。順位付けは、ふだんしていない。というのは、その時その時で関心が集中する字が一つ二つくらいあり、その中で調べが一段落しそうだという字が実は一番面白いと感じる。あまり困って立ち往生していても、終了時間をさらに超してしまっていけないので、毎日そういうものが見つかるとつなげながら、説明しやすい「あけんばら」の字を、咄嗟にここでも紹介した。しかし、やはり実際には、今調べている字がいつも一番楽しい。それまでスルーしてきた文字に、急にその意義が感じられるようになると、その文字が立ち上がってきて輝き出すのだが、人にはそれが伝わりにくい字であることが多い。

あけんばら

終了後、マイクの調整に努めて下さっていた方が、今日の話の中で、地元のラジオ番組で使いたいものがあったがいいか、とおっしゃる。「仏滅」の話だそうだ。仏教でも神道でもない「物滅」がそのように当て字にされてから私たちの意識に食い込み、涅槃会との関係に整理が付かないまま、生活規範となり生活習慣まで変えたという件だった。中国の民間信仰から、日本で暦に好まれたものだ。ぜひどうぞ広めて、とお願いして、きれいな会館を後にした。

後日、早速、ご自身のブログで、あの講演の感想を書いてくださった方がいらした。高価な小著『国字の位相と展開』まで、ご注文下さった方もおいでだった。もっと漢字について詳しく知りたい、という高い意欲をおもちの方が多かったようだ。

実はこの日はその半日前から、しゃべっていた。皇族の方々もお泊まりになるという市内のホテルが身の丈に合わず良過ぎたのか、ベッドが柔らかすぎたようで、腰が痛い。座っている時間が長いためかもしれない。嬉野など温泉が目の前にあるが、近寄ることがかなわず残念だった。

すでに地元の方々に触れる機会を頂いていた。夜に佐賀入りした翌朝早く、市内の中学校に向かった。車の中で聞く話、見る風景ともに新鮮で、写真もメモが追いつかない時があった。

便利な時代になったもので、その中学について、WEBで予習していたときに、校歌に「光と輿れ父祖の土」とあった。何か地域訓かと色めくが、「おこれ」と歌っているので、「興れ」の誤植かと落胆する。

8:00台の授業は、初めてだ。なんと地元の教育庁からも人がおいでだそうで緊張する。萎縮してはいけないが、校長室はいくつになっても呼び出された感がある。柳田国男の日記を見ていると、よく各地の校長先生とお会いになっていた。あくまでも年齢だけが歴史上の人物に近づいていることに親しみを覚えるとともに、焦燥感や諦めの念も強まる。

お邪魔したのは、日程の都合から卒業式前日で、椅子をもっての予行など忙しい時期のようだった。校内では、廊下に「絆」の字が、この字体のままデザインされて手書きされていた。常用漢字表に入らなかったこの「絆」の文字には、「絆という字は二人の人が糸を半分ずつ持っている」という解釈が聞かれる。一方で、「半」では嫌だ、「紲」のほうが「世」が入っているから良い、という女性も現れている。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。