日本語における漢字かな混じりという複雑な表記を廃し、横書きカタカナ表記の普及をはかることを目的に活動していたカナモジカイは、大正14年(1925)11月、それまでのカナモジ活字にさらなる工夫改良をくわえて完全なものにしたいという趣旨で、「ヨコガキ カタカナ 活字字体考案懸賞募集」をおこなった。
三省堂にとってそれは、アメリカから到着したベントン彫刻機を組み立て、あたらしい母型の試刻にむけて書体研究をすすめていたころだった。今井直一のもと書体研究を中心となっておこなっていたのは、桑田福太郎と松橋勝二。ふたりはそれぞれカナモジをデザインし、懸賞に応募した。
懸賞募集は、報知新聞の後援をうけ、森下仁丹創業者の森下博の好意により、各新聞に仁丹広告として募集広告を出しておこなわれた。[注1] 賞金総額は800円あまり。審査員をつとめたのは、印刷局長・池田敬八、国語審査会調査会幹事・保科孝一、加島銀行取締役・星野行則、工学博士・片岡安の各氏。応募開始は大正14年(1925)11月1日、締切は大正15年(1926)3月31日だった。
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はたして、どのような書体デザインが求められたのであろうか。すこし引用が長くなるが、当時の書体デザインの背景もうかがい知れるので、応募規定をくわしく引きたい。なお、原文は漢字カタカナ混じり表記だが、読みやすくするため、漢字かな混じり表記にして引用する。
用紙や、書きかたの注意などはつぎのとおり。
さらには、〈字体工夫には独創的な態度で、自由に考案されたい。カナモジカイで使っている改良活字字体などには拘泥せず、新基軸を出す意気込みであたられたい〉〈何人がよんでもすぐわかるという条件はとくに重くみてほしい。一目見て何の字か分らない字体は線のまがり工合 配置 間隔などにすぐれた点があっても 審査にあたり不利となることをあらかじめ警告しておく〉といった、デザインをおこなううえでの注意点も添えている。[注5]
以上の応募要項を読むと、この懸賞応募の原字は、用紙に墨汁で書かれたものであったようだ。それにしても、〈これは特別の技術を要する建築図案とちがって、何人といえどもかき得るわけであるから、ふるって応募し〉[注6]というのは、紙に書くのだから特別な技術はいらないだろうということなのだろうか。
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このコンテストの結果は、『カナノヒカリ』昭和2年(1927)3月号の誌面にて発表された。[注7] 応募締め切りが大正15年(1926)3月31日であるから、結果発表まで1年ほど要している。その理由は「審査経過報告」としてくわしくしるされている。つまり、ここで募集した書体は最終的には活字鋳造を目的としているので、活字鋳造・印刷の専門家の意見を聞いて審査の参考にしたいということで、内閣印刷局技師・印刷部長の矢野道也、おなじく活版課長の安延郁太郎の2人にこまかく見てもらい、くわしい批評を書きいれてもらった。どうやらここに半年ほどを費やしたようだ。
さて、三省堂からカナモジのデザインを応募したふたりの結果はどうだったのだろうか。
松橋勝二の作品は、当選・佳作の候補として最終選考までのこった。
桑田福太郎の作品は、ざんねんながら選外であった。[注8]
(つづく)
[参考文献]
- 山下芳太郎『国字改良論』(カナモジカイ、1942年発行の第8版を参照/初版は1920)
- 『カナノヒカリ』第47号 大正14年(カナモジカイ、1925)12月号
- 『カナノヒカリ』第57号 大正15年(カナモジカイ、1926)9月号
- 「ヨコガキ カタカナ 活字字体 考案懸賞募集 答案審査報告」『カナノヒカリ』第63号 昭和2年(1927)3月号(カナモジカイ)
- 「カナモジカイ」『カナノヒカリ』第104号 昭和5年(1930)8月号 表2
- ミキイサム「カナモジ活字ノ歴史」『カナノヒカリ』第517号 昭和40年(1965)7月号(カナモジカイ)
- 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)
- 『三省堂ぶっくれっと』No.103(三省堂、1993)
[注]