「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第37回 カナモジカイと三省堂

筆者:
2019年12月25日

ベントン彫刻機を入手した三省堂で、初期の書体研究にたずさわった技師・桑田福太郎による三省堂のオリジナル活字書体に「桑田式カナモジ」があることは、前回ふれた。「カナモジカイ」と関係する書体だ。

 

日本語は、漢字、ひらがな、カタカナが入り混じって表記される複雑な言語だ。活版印刷にもちいる金属活字をつくる際にも、それぞれのおおきさ・書体ごとに最低でも約3000字は必要で、そのことが欧文にくらべ、あらたな活字書体をつくるうえでのおおきな負担ともなっていた。

そうしたなか、近代になって漢字廃止論や節減論があらわれるようになった。漢字廃止論のいちばんはやいものとしては、近代郵便の父・前島密が慶応2年(1866)、徳川慶喜に建白した「漢字御廃止之議」があげられる。これ自体は受け入れられなかったが、以降日本では、漢字を廃止してローマ字をつかうことをとなえるローマ字論や、ひらがなの採用を提唱するかな専用論、まったくあたらしい文字をつくろうとする新国字論などが登場し、「国字問題」がくりかえし論じられた。[注1]

 

こうした流れのなか、実業家のヤマシタヨシタロウ(山下芳太郎)が大正9年(1920)に設立したのがカナモジカイ[注2]だ。日本語の表記を漢字かな混じりでおこなうのは教育の能率をさまたげるとして、これに代わり、カタカナの左横書きで表記することを主張する運動である。

 

カナモジ運動は「漢字をやめること」「カタカナをつかい、左からの横書きに統一すること」を提唱していた。いわく、日本の小学校6年間でならう学問は、西洋の4年生程度にすぎないとし〈西洋の子供は学問をならっており、日本の子供は漢字をならっている〉〈読みちがい、書きちがい、字引をひく手数、悪筆のなやみ。普通選挙の投票の半数が誤字であった日本、これでも文明国か?〉と手きびしい。カタカナを提唱する理由としては、「カタカナは世界で一番やさしい文字」「一番すぐれた文字」「だれにもわかる文字」だということを挙げている。[注3]

 

大正9年(1920)11月1日に山下芳太郎によってしるされた「仮名文字協会設立趣意書」では、その事業内容として①カタカナの活字を研究改良し、そのなかで得た優良な字体(書体)でさまざまなおおきさの活字を製作して、どんな印刷にもさしつかえないようにすること、②カナモジの活字の使用をすすめること、③カナモジで印刷した文書(印刷物)を世間に広めること、④カナモジのタイプライターの使用を世間に広めることなどを挙げている。[注4]

 

カナモジカイは、カタカナ表記を普及させるため、左からのカタカナのみの横書きで読みやすい「カナモジ」書体の開発にはげんだ。山下芳太郎がかかわった初期のカナモジは、つぎのような書体である。

 

山下芳太郎が開発にかかわった初期のカナモジ活字。1は山下本人により大正5年(1916)試作されたもの。2は平尾善治による、大正8年(1919)の試作。3は印刷局技師・猿橋福太郎による大正10年(1921)の試作

山下芳太郎が開発にかかわった初期のカナモジ活字。1は山下本人により大正5年(1916)試作されたもの。2は平尾善治による、大正8年(1919)の試作。3は印刷局技師・猿橋福太郎による大正10年(1921)の試作[注5]

 

カナモジカイは、「わが国に横書きカタカナの普及をはかることを目的とする」という趣旨[注6]に賛同した者が会員となり、活動していた。三省堂は、はやくから参加していたようだ。機関紙「カナノヒカリ」57号 大正15年(1926)9月号に「会員が20名以上の市町村、官庁、会社」が掲載されており、会員数35名でリストに掲載されている。これは会社としては一番おおい数字だ。[注7]

 

そして大正14年(1925)11月、それまでのカナモジ活字にさらなる工夫改良をくわえて完全なものにしたいという趣旨で、カナモジカイは「ヨコガキ カタカナ 活字字体」考案懸賞募集をおこなったのである。
(つづく)

 

[注]

  1. 国語審議会会長 土岐善麿「国語問題要領(報告)」(1950/6/12)
  2. カナモジカイ:日本語の表記に漢字をもちいることの不合理性を明らかにし、漢字廃止論・カナ文字専用論をとなえ、日常生活では、もっぱらカナ文字を用いる時代をつくることを目的とした団体。設立時の名称は「仮名文字協会」。大正12年(1923)4月1日に「カナモジカイ」と改称された。
    http://www.kanamozi.org/
    設立者の山下芳太郎については、安岡孝一「タイプライターに魅せられた男たち」にて、全42回にわたり書かれている。「タイプライターに魅せられた男たち・第146回 山下芳太郎(1)」
  3. 「カナモジカイ」『カナノヒカリ』第104号 昭和5年(1930)8月号(カナモジカイ) 表2に掲載の会員募集より。原文はすべてカタカナ表記
  4. 山下芳太郎『国字改良論』(カナモジカイ、1942年発行の第8版を参照/初版は1920)P.87
  5. ミキイサム「カナモジ活字ノ歴史」『カナノヒカリ』第517号 昭和40年(1965)7月号(カナモジカイ) P.16
  6. 山下芳太郎『国字改良論』(カナモジカイ、1942年発行の第8版を参照/初版は1920)P.85
  7. 『カナノヒカリ』第57号 大正15年(1926)9月号(カナモジカイ) P.49

[参考文献]

  • 山下芳太郎『国字改良論』(カナモジカイ、1942年発行の第8版を参照/初版は1920)
  • 「カナモジカイ」『カナノヒカリ』第104号 昭和5年(1930)8月号 表2(カナモジカイ)
  • ミキイサム「カナモジ活字ノ歴史」『カナノヒカリ』第517号 昭和40年(1965)7月号(カナモジカイ)
  • 『カナノヒカリ』第57号 大正15年(1926)9月号(カナモジカイ)
  • 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955/執筆は1950)
  • 『三省堂ぶっくれっと』No.103(三省堂、1993)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『印刷・紙づくりを支えてきた 34人の名工の肖像』『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本で3社しかもっていなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。