『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて

(16) 中関白家の子息たち~隆家(たかいえ)

2009年12月8日

前回お話しした伊周(これちか)のすぐ下の弟が隆家です。ただし、年齢的には二人の間に定子が入り、隆家は定子より二つ下の弟になります。さらにその一つ下に出家した隆円という弟がいます。当時の権門貴族は、一族の繁栄と加護を祈るために、跡継ぎ以外の子息の一人を僧にすることを慣例にしていました。隆円は十五歳で権少僧都(ごんのしょうそうず)になり、定子の出産時の祈祷の折に奉仕しました。『枕草子』にも「僧都の君」と称されて登場しています。

さて、今回は隆家を取り上げます。彼は父関白の抜擢により十七歳で中納言になりました。軟派でお坊ちゃんの兄伊周に対して、硬派でやんちゃな次男が隆家です。『枕草子』に登場するエピソードを紹介しましょう。ある日、隆家が定子に、素晴らしい扇の骨を手に入れ、それに張る最上の紙を探していると言うので、定子がどんな骨なのか尋ねたところ、全くまだ見たこともない骨の様子だと得意げに言いました。そこで、清少納言が、「それなら扇の骨ではなく、クラゲの骨のようですね」と口を挟んだところ、隆家は、「これは自分が言ったことにしてしまおう」と笑ったという話です。負けず嫌いの彼の性格が伺えますね。

そんな隆家ですから、奇矯な行動で何かと話題の多い花山院の挑発にのった話が『大鏡』に記されています。ある時、「いくらおまえでも、わが家の門前を通り過ぎることはできまい」と花山院に言われた隆家が、大勢の従者を引き連れて院の邸に出向き、院邸の荒法師たちとにらみ合った末に引き返したという話です。長徳の変の発端となった事件で花山院に矢を射かけたのも、隆家の花山院に対する日頃の挑み心が行きすぎて調子に乗ってしまったためではないでしょうか。それが後に大変な事態を引き起こすとは思ってもみなかったに相違ありません。

性格的な面で父道隆の快活さを受け継いだ隆家は、宿敵だったはずの道長に好意を持たれていた人物でもあります。再び『大鏡』の記事を紹介しましょう。隆家が左遷地から召還され不本意な日々を送っていたある日、道長が自邸で催した宴会にわざわざ隆家を招待しました。道長が装束の紐を解いてくつろぐように勧めても隆家は躊躇しています。そこで、同席していた藤原公信(きんのぶ)が隆家の装束の紐を解こうとしました。その途端、隆家が「自分は不運なことがあっても、そなたにこのようにされるような身ではない」と一喝したため、道長が自ら隆家の衣装の紐を解いたところ、機嫌が直り、いつも以上に杯を重ねたということです。

後に隆家は大宰権帥(だざいのごんのそつ)として九州に下りました。任地ではよく治世を行って九州全土の人々の人望を集めたうえ、海外から賊が襲来した折には地元豪族の士気を奮い立たせて共に戦い、勝利して功績をあげました。道長の人を見る目は確かだったということでしょう。

隆家に対して述べられた「大和心かしこくおはする人」とは、政治家としての判断力と実行力を備えた人物に与えられる『大鏡』流の最上の評価です。さらに、もし隆家が定子の産んだ皇子の後見となって国政を執ったなら、天下はうまく治まるだろうと期待されていたとまで書かれています。

関白家のかつてのやんちゃ坊主は、没落貴族のままにしておくには惜しい人物に成長しましたが、その気概ゆえに二度と政治の表舞台に立つことなく、六十六歳の生涯を終えました。

筆者プロフィール

赤間恵都子 ( あかま・えつこ)

十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

『枕草子 日記的章段の研究』

編集部から

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。

著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。