ようやく物語本体についての話です。第62回の (78a) で言及しましたが,「城の崎にて」はとても静かな印象を読者に与えます。この印象はどこから来るのでしょうか。まず,その点からはじめます。
冒頭に続く一節は次のようになっています。
(84) 頭はまだ何だか明瞭(はっきり)しない。物忘れが烈しくなった。しかし気分は近年になく静まって、落ちついたいい気持がしていた。稲の穫入(とりい)れの始まる頃で、気候もよかったのだ。
一人きりで誰も話し相手はない。読むか書くか、ぼんやりと部屋の前に椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮していた。(編集部注:ルビは実際には傍ルビ)
(84) の第3文に「静まって」とあります。「静かさ」にかかわる語(「静か」「静まる」「静寂」)が合計16回,5500字を少し超える短編のなかで使われています。さらには,静かさとなじみのよい寂しさを表す語(「淋しさ」「寂しさ」「静寂」)も合計10度(そのうち先ほどもカウントした「静寂」は2度)使われます。語られる内容自体が「静か」なのです。しかも,これほど関係する語彙が繰り返し示されると,さすがに「静かさ」が印象づけられるはずです。
加えて,この作品では誰も発話のかたちではしゃべりません。語り手は出来事を丹念に眺めつづけますが,誰とも話しません。逃げ惑うネズミを眺める「見物人は大声で笑」います。しかしその笑い声は,語り手のことばを通して間接的に伝えられるのみです。つまるところ「城の崎にて」は無言の小説なのです。この点も静かな印象に一役買っているのだと思います。
さらには,文体の基調も静かさの印象に貢献しています。(84) の述部に下線を施しました。すべて語り手自身や語り手の身の回りの状況を表すのみで,具体的な行為が目の前で繰り広げられるわけではありません。なかでも「…していた」という文末が特徴的です。(84) でも2度使われています。この言い方は当該の動作を状態として表現します。第2文の「激しくなった」は一定の変化を前提としますが,変化のプロセスに目を向けるのではなく,変化の結果状態に着目する表現です。
このような状態を記す表現が (84) 以降もしばらく(字数にして800字ほど)続きます。冒頭の段落が「タ」系の言い切りのかたちで一定の行為・出来事を記述していたのとは著しい対照をなします。能動的な行為を表す表現は (84) に続く部分でも用いられますが,その場合は「夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た」というように,習慣化された行動について言及しており,状態的な傾向は破られません。物語の導入部は背景情報が提示されることが多いので,通常,静的な状態表現が多いものですが,この短編の前半部ではその度合いがことさら強いのです。
静かさの印象がもたらされるじゅうぶんな理由が,この作品には備わっているのです。
さて,こうした静かな状態的描写を地にして「城の崎にて」の前半部が語られます。
(85) 虎斑(とらふ)の大きな肥った蜂が天気さえよければ、朝から暮近くまで毎日忙しそうに働いていた。蜂は羽目のあわいから摩抜(すりぬ)けて出ると、一(ひ)トまず玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で叮嚀(ていねい)に調えると、少し歩きまわる奴もあるが、直(す)ぐ細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。飛立つと急に早くなって飛んで行く。 (編集部注:ルビは実際には傍ルビ)
ここでは,第1文の「働いていた」の後は,「下りた」「飛び立つ」「飛んで行く」というように,ハチの活動を示す動的な表現が続きます。それまで止まっていた物語の時間がはじめて流れ出します。
このあとに続くネズミとイモリのエピソードについても同様のことが言えます。つまり,この作品は,静かな語り口を基調としつつ,語り手の観察を通して小動物の動きが浮かび上がる,そのような体裁になっています。実際,物語の結末近くにおいて,ハチ・ネズミ・イモリの死とともに自分の事故のことが並べて想起されます。この小動物の生死に関わる記述が物語の根幹です。
ということは,ハチ・ネズミ・イモリの3つのエピソードが順序の置き換えのきかないかたちで互いに結びついていることを示せたら,第62回の (78c) で述べたこの作品のまとまりの良さを物語の本体部分についても証明できる。そう考えました。
で,3つのエピソードの関係性についてですが,そのお話は再来週になります。