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第64回 「城の崎にて」のはじまりと終わり(その2)

筆者:
2013年10月24日

「城の崎にて」は次の短い一節で幕を閉じます。

(82)  三週間いて、自分は此処を去った。それから、もう三年以上になる。自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。

前回に見た冒頭の一節((80))と同様,淡々とした記述で,内容も文体も小説の本体部分とは異なります。ともすれば付け足しのようにさえ思われます。実際, (80) と (82) がなくとも「城の崎にて」は短編小説として成立します。

では,冒頭と終幕の一節はなぜあるのでしょうか。(80) と (82) をはじめと終わりにわざわざ置くことで,作品にどのような効果がもたらされるのでしょうか。

冒頭では,大丈夫だろうとは断りつつも,語り手に生命の危険があることが告げられます(「背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた」)。読者はいわば棘が刺さった状態に置かれます。語り手の生死に関わることが述べられるのに,その結果については何も知らされないからです。

終幕の一節は,脊椎カリエスにならなかったことを告げて,読者の心に刺さった物語の棘を抜き去ります。冒頭で触れた発病の可能性について終幕で再び言及することによって,この作品はちょうど円環が閉じるように終わるのです。つまり,冒頭と終幕が本体部分を挟み込むことで,作品全体に強いまとまりの感覚がもたらされます。

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さて,円環と言えば,この作品の要約と終幕による挟み込みの構造は,よくある物語の型を体現しています。「行って帰って来る」物語の構造です。

「行って帰って来る」物語とは,文字通り,主人公が自分の故郷(ホーム)から旅立ち,主人公にとっての非日常空間での体験を経て帰って来る物語です。始発地点のホームは安定(平衡状態)を象徴します。何らかの事件が起こってこの安定が崩れ,それを取り戻すために主人公は旅立つ。主人公はいくつかの試練を乗り越え安定を取り戻す。そして,主人公は帰郷し物語は幕を閉じる,というのが典型的な筋立てです。

イザナギが先立った妻イザナミに会いに黄泉の国に行き,朽ち果てた妻の亡がらに恐れを抱き逃げ帰って来る神話は,この「行って帰って来る」話の典型です。浦島太郎だってそうです。(玉手箱の煙は,故郷に戻って来た太郎を竜宮城ではなく現実世界の時間を過ごした場合の年齢に近づけるための仕掛け――物語上の必然――だと思います。)

この「行って帰って来る」筋立ては,出発点と異動先と到着点が明確なだけに,物語にはっきりとした目標とまとまりを与えます。『ハリー・ポッター』シリーズの1冊1冊が大部になるにもかかわらず子どもがついていける理由のひとつに,ホグワーツ魔法学校に行って帰って来る――そして行った先では慣れ親しんだスクールカレンダーに従って行動する――という分りやすい構造があることが挙げられます。

『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』だって,日頃のテレビ放送では手短なエピソードでやりくりしていますが,映画になって尺が長くなると,決まってこの「行って帰って来る」形式を採用します。そして,それに呼応するかたちで野比のび太も野原しんのすけもテレビシリーズより勇敢になり,ヒーローの度合いを強めます。

話を「城の崎にて」に戻しましょう。

主人公は電車にはねられる大事故のあと,死について考えることが多くなります。「何かしら死に対する親しみが起こっていた」という状況は,30代前半の人物――実際に山手線の事故にあい城崎に赴いた志賀直哉の年齢を単純に当てはめるとそうなります――にとって好ましい安定した状況でしょうか。彼は「死に対する親しみ」を胸に城崎という非日常空間を訪れます。そして,小動物の死に遭遇し,生と死に対する認識を新たにするのです。

(83) そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。しかし実際の喜びの感じは湧き上っては来なかった。生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。

(83) の感想を胸に,主人公は城崎を後にします。彼はそれまでの日常の世界に戻り,物語が閉じられます。「行って帰って来る」物語の構造をこの小説と重ね合わせるとき,主人公の城崎での経験は,不安定な現状を打開するための非日常的な行為(冒険)と位置づけられます。つまり,私たちが共有する物語(「行って帰って来る」物語)の枠組みを重ね合わせることで,この小説の本体部分が持つ意味合いが明瞭になるのです。

小動物の生と死を見つめる。そして,自分の生と死について考え合わせる。この筋立てに対し,行って帰って来ることを記した冒頭と終幕が付け加えられました。その結果,本来は動きの少ない物語に冒険潭の構造が重ね合わることになり,はじめと終わりの感覚が強く印象づけられる。そして,主人公の経験の意味は,心理的に不安定な状態を克服するための試練として,より鮮明に立ち上がってくる。そう考えました。

「城の崎にて」の冒頭と終幕は余分な付け足しではないと思います。

筆者プロフィール

山口 治彦 ( やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。

専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。

著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版)

 

『語りのレトリック』(海鳴社)

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