久保田万太郎(1889~1963)の『春泥』は1928(昭和3)年1月5日から4月4日まで『大阪朝日新聞』に連載され、1929(昭和4)年には春陽堂から単行本として刊行されている。関東大震災後の隅田川界隈の変貌を背景にし、凋落していく新派俳優たちを描き、久保田万太郎の代表作の一つとされている。
オンライン版の『日本国語大辞典』の検索で、「用例(出典情報)」に「春泥」、and「用例(出典情報)」に「久保田万太郎」を入れて検索すると、317件がヒットする。例えば『日本国語大辞典』は、「桜といつたら川のはうにだけ、それも若木といへば聞えがいゝ、細い、脂ツこい、みじめな、いへば気ましな枯れ枝のやうなものゝしるしばかり植わつた向島の土手。」(6頁)(筆者注:振仮名を省いて引用した)の「気まし」を見出しにしているが、使用例としては『春泥』のこの箇所のみがあげられている。あるいはまた「そこには蒲だの藺だのが、灰白く、かさ〳〵に、かたまり合つて枯れてゐた」(27頁)の「はいじろい」の項目においても、『春泥』のこの箇所のみが使用例としてあげられている。
12頁には「毎日まいんち浅草あさくさへ通かよふのに……公園こうゑんの芝居しばやへ通かよふのにとても麻布あざぶからぢやァ大たいへんだといふんで此方こつちへ越こして来きたといふんぢやァないか?」というくだりがある。「コッチ」は現代日本語の共通語でも使うが、「マインチ(毎日)」「シバヤ(芝居)」は一般的には使わないだろう。そんなことを思って読み進めていくと、「俺の釣堀だつて芝居のたまの休みに、それこそ一日か二日の忙しい中を無理をして行くからこそたのしみにもなるんだ。――今度のやうにまる〳〵一ト月休みの、来月だつて稼げるか稼げねぇか分らねぇ汐境に立つて釣どころの沙汰ぢやァねぇ。――人情はさうしたもんだ。――なァ小倉?」(33頁)というくだりがあった。あえて振仮名を省いて引用したが、「芝居」には「しばや」、「今度」には「こんだ」と振仮名が施されている。『日本国語大辞典』で「しばや」と「こんだ」を調べてみると次のように記されている。
しばや【芝居・芝屋】〔名〕「しばい(芝居)」をいう江戸の語。明治期にも広く用いられていた。*浄瑠璃・本朝二十四孝〔1766〕四「男の咽(のど)へ喰らひ付き、生きながら鬼になったと京大坂の芝屋で、甲斐国の女の鬼と、狂言にしたげな」*滑稽本・東海道中膝栗毛〔1802~09〕四・上「そこでハア見物の中から、博労の与五左といふ無上人(づないふと)が、舞台さアへ、かけだいていやるにゃア、このしばやアならないぞ」*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕二・下「芝居(シバヤ)でする忠臣蔵をお見」*明暗〔1916〕〈夏目漱石〉六「それで今度(こんだ)その服装(なり)で芝居(シバヤ)に出掛けようと云ふのかね」
こんだ〔名〕「こんど(今度)」の変化した語。*雑俳・川傍柳〔1780~83〕初「こんだからかしてやるなと鍋を捨」*洒落本・取組手鑑〔1793〕「こんだくるなら、うなぎのあたまか、またたびを持って来てやろうよ」*夢酔独言〔1843〕「夫からは少もかまわぬ故 今だの事も一向ふにしらぬ顔ているといって」*歌舞伎・鼠小紋東君新形(鼠小僧)〔1857〕三幕「今もこんだの世には、いい衆に生れて仲之町の酒が呑みたいと、申したところでござりました」*虞美人草〔1907〕〈夏目漱石〉一〇「今度(コンダ)の試験の結果はまだ分らないの」
「シバヤ」ははっきりと「江戸の語」と説明されているが、「明治期にも広く用いられていた」とある。あげられている使用例でいえば、「浄瑠璃・本朝二十四孝」「滑稽本・東海道中膝栗毛」「滑稽本・浮世風呂」が江戸時代の使用例で、その後ろに夏目漱石「明暗」の例があげられている。
「コンダ」の語釈には「江戸の語」とは記されていないが、あげられている使用例は「雑俳・川傍柳」が最初で、「洒落本・取組手鑑」「夢酔独言」「歌舞伎・鼠小紋東君新形」でいずれも江戸時代の使用例で、その後ろに夏目漱石の「虞美人草」の例があげられている。このことからすれば、「コンダ」も「江戸の語」で明治期にも使われていた、いわゆる「東京弁」とみることができるだろう。夏目漱石は「東京弁」として「シバヤ」と「コンダ」を使っていた。
夏目漱石は慶應3年1月5日(1867年2月9日)生まれなので、久保田万太郎よりも22歳年上ということになる。一世代を30年と考えると、一世代とまではいかないにしても、かなり年が離れている。その年が離れている夏目漱石と久保田万太郎とが、ともに「シバヤ」と「コンダ」を使っているところがおもしろい。現在であれば、22歳年が離れていたら、使う日本語がかなり異なってきてもおかしくない。それだけ社会の変化のスピードが早く、それにともなって言語変化のスピードも早いということだろう。たまには、久保田万太郎の作品をゆっくり読み、その日本語表現をあじわうことも必要だろう。