まず『日本国語大辞典』の見出し「ゆるがせ」をあげてみよう。
ゆるがせ【忽】〔形動〕(「いるかせ(忽)」の変化した語。古くは「ゆるかせ」)(1)物事をいい加減にするさま。なおざりにするさま。おろそか。*源平盛衰記〔14C前〕一・清盛捕化鳥「されども此入道の世の間は、聊も忽緒(ユルカセ)に申者なかりけり」*申楽談儀〔1430〕音曲の心根「何も同じことなれ共、此曲舞、いづくも底性根ゆるかせ成べからず」*日葡辞書〔1603~04〕「Yurucaxe (ユルカセ)〈訳〉注意の足りないこと。気にかけないこと」*仮名草子・伊曾保物語〔1639頃〕中・四〇「果てには恥辱を受くるもの也。ゆるかせに思ふ事なかれ」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第二部・下・一二・二「自分等の子孫のためにもこれはゆるがせにすべきでないと思って来た」(2)きつくないさま。ゆるやかなさま。寛大なさま。また、のんびりしたさま。*浮世草子・日本永代蔵〔1688〕五・五「惣じて、親の子にゆるかせなるは、家を乱すのもとひなり」*浮世草子・西鶴織留〔1694〕三・二「連歌の掟をゆるかせにして俳諧といふもこれ歌道の一体なり」*浄瑠璃・義経千本桜〔1747〕二「はこぶ船頭水主の者人絶のなき船問屋世をゆるかせに暮しける」(略)辞書 和玉・文明・天正・日葡・ヘボン・言海 表記【忽】和玉・文明・天正・ヘボン・言海
あげられている使用例で、はっきりと「ユルガセ」であることがわかるものは、島崎藤村の「夜明け前」のみだ。「夜明け前」は1929(昭和4)年4月から1935(昭和10)年まで、『中央公論』に断続的に掲載され、第一部が1932(昭和7)年、第二部は昭和10年に新潮社から単行本として出版されている。
この時点を「ユルガセ」という第3拍濁音語形の使用の起点とみて、それ以前を「古くは「ゆるかせ」」と説明しているのだとすると、「古くは」という表現でいいかどうか、と思わないでもない。昭和初期になって濁音語形が使われ出したならば、「ゆるかせ」を見出しにして、昭和頃からは「ゆるがせ」と注記するというやりかたがありそうだ。
見出し「ゆるがせ」の「辞書」欄に「ヘボン・言海」とあると、ヘボンの『和英語林集成』も『言海』も「ユルガセ」を見出しにしていると思うのが自然だ。ところが、ことはそう単純ではない。
『日本国語大辞典』が「ヘボン」として参照しているのは、1872(明治5)年に刊行された『和英語林集成』第二版である。このことは「凡例」の「辞書欄について」に記されている。『和英語林集成』は1867(慶應3)年に出版された初版も、再版も「ユルカセ」を見出しにしている。それはいいのだが、1886(明治19)年に出版された第三版では、なんと「ユルガセ」を見出しにしている。
それはそれとするが、『言海』を調べてみると……「ゆるかせに」を見出しとしている。『言海』の刊行が完結したのは、明治24年であるが、印刷のための原稿は明治19年には完成しているので、『和英語林集成』第三版と『言海』とは「同時代」の辞書とみてよいだろう。そうであれば、「同時代」の辞書の一つは「ユルガセ」を見出しにし、もう一つは「ユルカセ」を見出しにしているということになる。
ある語形からある語形がうまれた場合、ここでは「ユルカセ」から「ユルガセ」がうまれた場合ということになるが、「ユルガセ」がうまれたとたんに「ユルカセ」が使われなくなるわけではない。これまで「ユルカセ」を使ってきた人の大多数はそのまま「ユルカセ」を使うはずだ。新しくうまれた「ユルガセ」が相当程度浸透、定着すると、「ユルガセ」を使う人が徐々に増えていくという「変化の過程」を想定するのがもっとも自然だろう。となると「ユルカセ」「ユルガセ」の「併用期」があることになる。先に述べた『和英語林集成』第三版と『言海』との「状況」は明治20年頃がこの「併用期」であったことを推測させる。
島崎藤村が「夜明け前」で「ユルガセ」を使っていると思われるので、昭和10年2月5日に博文館から刊行された『辞苑』を調べてみた。すると見出しは「ゆるかせ」であった。『言海』の編纂者である大槻文彦は、1847(弘化4四)年生まれ、島崎藤村は、1872(明治5)年生まれ、新村出は、1876(明治9)年生まれだ。新しい語形があることに気づいて、すぐにそちらに「乗り換える」人もいれば、自身がなじんでいる語形をずっと使い続ける人もいると思われるので、島崎藤村の「ユルガセ」をどうとらえればいいかということも単純ではない。
なぜ、「ユルカセ」を気にしたか、といえば、森鷗外が「栗山大膳」の中で「真面目な事のゆるかせにせられる中で」(『山房札記』19頁)と、「ユルカセ」を使っていたからだ。森鷗外は1862(文久2)年生まれだ。ことばを丁寧に、慎重に使う鷗外が使った「ユルカセ」もまた、ゆるがせにはできない。