「法廷用語の日常用語化」の作業で私たちが目指したのは、裁判員が、法廷でのやりとりを容易に理解できるようにすることである。そのために、法律家が裁判員に対してどう語るべきか、どう説明するべきかを考えてきた。これは、裁判員が参加する裁判を内実のあるものにするために、欠くことのできない作業であったと思う。
しかし、刑事裁判が行われる法廷の風景を思い出し、そこにいる人々の顔を想像してみると、法律家でない人が常に重要な役割を担っていたことに気づく。それは、被告人である。被告人は法廷の不可欠の構成員であり、裁判の結果についてもっとも切実な利害を持つ当事者である。その被告人は、これまで法廷でのやりとりを理解していたであろうか。朗読される起訴状の意味が分かっていたであろうか。これまでの法廷でのやりとりが裁判員にとって理解しがたいものであるならば、それは被告人にとっても理解しがたいものであったに違いない。
このことは、法廷通訳の役割を考えると、もっとはっきりする。私は、以前、日本への留学生に一定の研修をしたうえで、弁護士が外国人被疑者と面会するときの通訳を務めてもらうという計画に関わったことがある。それをきっかけに、さまざま言語の法廷通訳のために、手引き書や法律用語辞典が発行されているのを知った。法廷通訳のために研修会が行われ、熱心な通訳者たちは、独学でも法律を研究しているであろう。これらの機会を通じて、法廷通訳は、刑事裁判のしくみや法律用語について正確に理解し、的確な通訳ができるように訓練される。
しかし、法廷通訳に裁判手続や法律用語の知識が要求されるということは、法廷でのやりとりの意味を正確に理解するには、日常用語の理解力では足りないことを意味している。それでは、通訳の付かないふつうの日本人の被告人は、どうなるか。日本語の日常用語しか知らない彼らには、裁判が理解できないことになる。これまでの刑事裁判では、被告人が裁判手続の進行や、裁判長から告げられることの意味を正確に理解できていたかどうか、非常に心許ない。
このような問題は、おそらく外国にもあるだろう。カミュの小説「異邦人」の中に、主人公が法廷で被告人として聞いている議論が、自分とは別世界のできごとのように感じるという感覚が描かれている。作者は、現実の法廷を傍聴したか、あるいは裁判に関わった経験から着想を得て、法廷場面を詳しく書いたのかもしれない。この小説の哲学的な含意を理解することは、私には難しい。しかし、この場面を法律家的に解釈すれば、法廷での言葉遣いが、法律家ではない被告人に、隔絶感を生じさせるのだと思う。
裁判員が参加する裁判では、法廷でのやりとりは日常言語の範囲で理解できるものでなければならない。一定の範囲で刑事裁判に特有な用語が登場することは避けられないけれども、法律家たちは、法律を学んだ経験のない人々にも容易に理解できるように、その意味を説明しなければならない。それに成功すれば、刑事裁判は被告人にとっても分かりやすいものになる。そのことには、裁判員制度の副産物という以上のだいじな意味があると思う。