『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて

(17) 中関白道隆の死

2009年12月22日

中関白とは12世紀頃から使われてきた藤原道隆の通称です。藤原氏の関白の地位をゆるぎないものとした兼家と、摂関政治最盛期を築いた道長の間に、一時期、関白を務めたことから付けられたと考えられています。兼家は一条天皇の外祖父となり、宮廷でも我が物顔に振る舞っていた人物です。その兼家の長男として関白の位を継いだのが道隆でした。

父の威光で異例の出世をしたことは伊周(これちか)の場合と同じですが、政敵となる人物はおらず、スムーズに関白の地位に就きました。容姿端麗、明朗快活、酒豪でよく冗談を飛ばす人物だったようです。周囲に気を配り、場を取り持つことの得意な道隆のエピソードを『大鏡』から紹介しましょう。

道隆と道長兄弟の間には、関白の宣旨を受けるやいなや病没し、七日関白と呼ばれた道兼がいます。その道兼の長男の福足君(ふくたりぎみ)はとんでもない駄々っ子でしたが、ある時、祖父兼家の60歳の祝宴で舞を披露することになりました。その当日、大方の予想通り、福足君は舞台に登るなり駄々をこねて結った髪をほどき、衣装を引き破る始末です。その時、道隆が突然舞台に登り、甥をとらえて舞わせ、自分も一緒に見事に舞いました。道隆の機転のお陰で場は盛り上がり、道兼の恥も隠れて誰もが感嘆したということです。ちなみに福足君は、その後、蛇をいじめた祟りで頭に腫れ物ができて亡くなったと書かれています。

道隆が正妻として選んだのは、高貴な血を引く女性ではなく、内侍(ないし=天皇付きの女官)として宮中に仕えていた高階貴子でした。貴子が男性顔負けの漢詩人だったことは既に述べたとおりです。定子後宮の独創的な文化を作り出したのは、もとをただせば道隆のこの結婚であったと言えるでしょう。

中関白家の当主として大きな存在であった道隆は、次女原子を皇太子妃にした直後の長徳元年四月に、43歳で突然死去します。『枕草子』には、宮中に参内した原子と定子が対面する場面が描かれており、そこでは中宮と皇太子妃になった二人の娘を前に、道隆が、いつものように冗談を言って女房たちを笑わせています。しかし、歴史資料によると、道隆は病のために、前年秋から出仕もままならず、何度も辞表を提出して戻されている状態でした。原子参内から2ヶ月後に死去することになる道隆を描きながら、『枕草子』の記事はそんな不安の陰などみじんも感じさせません。この場面は、『枕草子』で道隆が登場する最後の記事になっています。

『大鏡』では、道隆の病気は長徳元年に流行して多くの人々が亡くなった疫病によるものではなく、飲酒が原因だったといいます。死に際に念仏を唱えるように言われた時、道隆は「済時、朝光なども極楽に行くだろうか」と言ったと書かれています。二人とも彼と相前後して亡くなった道隆の飲み友達でした。

まだまだこれからという時に世を去らねばならなかった道隆ですが、自らの政権掌握に対する執着があまり感じられないのはなぜでしょうか。彼が後継者として定めた伊周は、学才はあっても政治家としての資質は備えていませんでした。道隆の死後に残された中関白家の一族は、瞬く間に零落していくことになるのです。

筆者プロフィール

赤間恵都子 ( あかま・えつこ)

十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

『枕草子 日記的章段の研究』

編集部から

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。

著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。