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第37回 作品の性格とおいしい表現の関係(その1)

筆者:
2012年9月27日

なぜ,日常の食卓なら不自然で過剰なはずの表現が,漫画『美味しんぼ』のなかではさほど奇異に感じられないのでしょうか。いや,それどころか,むしろ好意的に受け取られているのでしょうか。

ここで『美味しんぼ』と,同じく漫画の『クッキングパパ』とを比較しながら考えてみます。というのも,『クッキングパパ』も単行本120巻を数える人気作ですが,味覚の表現に関しては『美味しんぼ』と対極にあり,さながら陰と陽,水と油,もっと言えば,ワインとブランデーほどの違いを示すからです。

『クッキングパパ』では,『美味しんぼ』に見られるような,色彩豊かで大げさな表現は見当たりません。「おいしい」と「うまい」のふたつの形容詞がそのほとんどすべてを占めるのです。『クッキングパパ』の味覚表現は自然でそして単調です。(60)と(61)は,それぞれ1コマのなかに現れるせりふです。どちらにおいても,皆が同じものを食べ,口々にその感想を述べています。

(60) 田中: うまいっ
  種子島: おいしいーっ
  梅田: こりゃ うまいやっ

(うえやまとち『クッキングパパ』37巻)

(61) 田中: おーっ これは!!
  梅田: うまいっ
  会社員1: おいし〜〜っ!!
  会社員2: う〜〜ん うまか

(同上)

『クッキングパパ』は,「おいしい」と「うまい」こそが自然な表現であるとの確信に満ちています。この確信は,第28回29回でも確認した「おいしいものはおいしいとしか言いようがない」という日常食卓の真理と同一のものです。

唯一「おいしい」「うまい」を使っていないのは,(61)の「おーっ これは!!」という田中のせりふですが,これはおいしさが先だって表現が追いついていないことを表しています。『美味しんぼ』のような説明ぜりふは見当たりません。『クッキングパパ』はリアルな表現にこだわるのです。

しかし,その一方で,「おいしい」と「うまい」(そして博多弁の「うまか」)しか使いませんから,作者の表現レパートリーは必然的にせばめられます。そこで,作者はしばしば言語表現以外の方法に訴えます。たとえば,おいしさを味わう登場人物の瞳に光を描きこんだり,背景に衝撃を表わす稲妻を配したりすることもあります。視覚に訴える表現法と言えます。

ちなみに,この方法をとことん過激に追求したものが,寺沢大介原作のアニメ『ミスター味っ子』です。そこでは,おいしさを表現したいあまりに登場人物が巨大化し,大阪城から手足を突き出した結果,城はそのまま崩れ落ちてしまう,ということだってあるのです(第28話「激闘!大阪城・カレー丼春の陣」)。おいしさのあまりの落城です。

話を『クッキングパパ』に戻しましょう。『クッキングパパ』はおいしいものはおいしいとしか言いようがない,という日常の真理にもとづいて表現します。したがって,『美味しんぼ』のカラフルな説明ぜりふに比べると,美味の表現は単調にならざるをえません。

ことに(60)と(61)は,同様のメンバーが同じような発言を繰り返します。しかも両者は,同じ37巻の141ページと124ページにそれぞれ現れるのです。『クッキングパパ』のせりふは,『美味しんぼ』のそれよりもはるかに現実に近いものですが,一作品の表現としては変化に欠けると言わざるをえません。

このように,『クッキングパパ』と『美味しんぼ』は,味覚の表現に関して対極にあります。対極にありながらも,両者はともに人気作品です。つまり,漫画においておいしさの表現を求める際に(少なくとも)ふたつの表現ストラテジーが存在し,そのどちらをとるかは,作者の裁量に委ねられてるのです。そして,作者の裁量は,自分が目指す作品の性格とふたつの表現ストラテジーとの親和性にもとづくのだと思います。

そろそろ紙数が尽きてきました。次回は,『美味しんぼ』と『クッキングパパ』,それぞれの作品に見られる事情と表現ストラテジーの関係について話を進めます。

筆者プロフィール

山口 治彦 ( やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。

専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。

著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版)

 

『語りのレトリック』(海鳴社)

編集部から

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。