前回,不自然なはずの表現がフィクションでよくなる理由を漫画『美味しんぼ』をもとに考える,と述べました。その計画に変わりはないのですが,あわてて付け加えることがあります。
『美味しんぼ』の表現は,たしかに日常の食卓で語られるにしては饒舌にすぎるところがあります。ですが,そのすべてが日常の視点から不自然であるというわけではありません。思わず膝を打つ表現も見られます。先にそのような例を確認しておきます。
たとえば,「究極VS至高 鍋対決!!」と題されるシリーズには次のようなせりふがありました。松葉ガニの鍋を食した際の登場人物の反応を表したものです。
(55) 唐山陶人: 「あふ。」 京極: 「い……」 (雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』31集)
独創的で擬音語のような感嘆のことばが連なります。このやり取りの前には,東京新橋の料亭「京味」の西健一郎という実在の人物が登場し,カニの足を鍋で火を通す過程について語ります。
(56) 西: この火を通す頃合いがむずかしいのです。生ではいかん、火が通りすぎてもいかん。ギリギリの頃合いを見切るのです。 (同上)
「見切る」ということばは,こう書かれるととても緊張感があります。このカニを食べた際の反応が,さきほどの「あふ。」と「い……」です。
(55)に続けて,完全にことばを失った登場人物のカットとカニ味噌を調理するコマを交差させたあと,主人公たちがこのくだりを締めくくります。
(57) 山岡: 皆、声も出ない…… 栗田: あまりの美味しさに言葉を失ってしまった…… (同上)
「あまりの美味しさに言葉を失」うのは,第29回に確認した通りで,実際によくあることです。では,ことばを失ってしまう状況をもっともよく表すせりふとはどのようなものでしょうか。
登場人物が何も言わないコマを描くよりも,表現しようとしてできない様子を見せるほうが効果的だと思います。ことばにならないことばを描く。しかも,「うーん」というようなありきたりの慣用的な表現では,絶妙な味わいを表現し切れません。そこで,「あふ。」と「い……」なのです。
口に暖かい食べ物が入ったままおいしさで呆然とする,そのときに発することば(音)として「あふ」よりもふさわしいものがあるでしょうか。この「あふ。」と「い……」,(まあ,若干,芝居がかって聞こえるかもしれませんが,)作者の表現に挑戦する姿勢が窺えて,私はとても気に入っています。
こうしてことばを失ってしまった登場人物ですが,ページが変わって(つまり,一呼吸置いて)気を取り戻すと,いつもの饒舌が取り戻します。なかでも,先ほど「い……」としか言えなかった京極は,次のようにこの鍋を評します。
(58) 京極: 使うたんはダシ汁とカニだけや、それであの羽二重のような舌ざわり。魂の奥までそっと撫で回すような味が出るもんなのか…… (同上)
「羽二重」は,少し古くさく感じられるかもしれません。しかし,京極は大旦那風の和装の趣味人という出で立ちで,関西弁を操ります。この年配の登場人物なら,なめらかでつやのある絹織物を羽二重と呼んでも差し支えないでしょう。キャラクターにふさわしい表現がされているのです。
その羽二重の質感を「舌ざわり」で受けておいて,「そっと撫で回す」につなげるあたり,作者の筆のさえを感じます。
しかし一方で,次のような表現も散見されます。
(59) 板山: う、旨い―っ!! 盛口: シャッキリとした歯ごたえ、繊細で上品かつ淡泊な味っ!!しかも旨味の要素がいくつも絡まりあって豊潤にして玄妙極まりない!そして後口のすがすがしいことっ! (雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』15集)
ふたりの男性がフグのから揚げを食べています。板山の反応はふつうですが,盛口のそれはどう考えても不自然です。
「シャッキリ」「繊細」「上品」「淡泊」「豊潤」「すがすがしい」といった形容語にさらに「玄妙」(!)まで加えて,料理の味わいを丹念に表現し,かつ,「旨味の要素がいくつも絡まりあって」と味の成り立ちを巧みに分析しています。いや,促音が2度も提示されたせりふのスピード感からすると,彼は猛烈な勢いでしかも的確に現在進行形の味覚についてまくし立てているのです。とても人間業とは思えません。
『美味しんぼ』には,このように,表現の妙と過剰が同居しています。
次回以降は,過剰で不自然なはずの表現が適切なものとして受け入れられている,フィクションの不思議について考えます。