西先生が引用した「サイエンス」と「アート」の違いを論じたラテン語交じりの文章は、どうやら『ウェブスター英語辞典』からの引用であり(これについてはもう一点確かめねばならないことがありますが次回とします)、同辞典はカールスレイクの著作からそれを引用しており、カールスレイクはどうやらそれをアリストテレスの『分析論後書』から取っている、という様子が見えてきました。これまた大いなる伝言ゲームです。
では、アリストテレスは「サイエンス」と「アート」の違いについて、どう考えているのでしょうか。前回見た『哲学字彙』の示唆に従って、『分析論後書』を覗いてみます。
ただし、『哲学字彙』に示されていた『分析論後書』のページ数は、どの版のものか分からないため、直接参考にはできませんでした。以下に示すのは、『哲学字彙』が示している箇所と一致するか否かは分かりませんが、『分析論後書』に見られる「サイエンス」と「アート」の違いに触れた箇所です。第2巻第19章にこういうくだりがあります。
生成するものについては技術の端初が、存在するものについては知識の端初がある。
(アリストテレス『分析論後書』第2巻第19章、100a10、加藤信朗訳、
『アリストテレス全集』第1巻、岩波書店、p.770)
この訳文で「技術」と訳されている語は、ラテン語訳ではartis、ギリシア語原文ではτεχνη(テクネー)です。「知識」のほうは、ラテン語訳がscientiaeで、ギリシア語がεπιστημη(エピステーメー)です。なお、上の邦訳では「エピステーメー」は「知識」の他に「科学」とも訳されています。
上の引用から、アリストテレスが、「テクネー(技術)」と「エピステーメー(知識)」を区別している様子が見えますね。「テクネー」はつくられるものに関しており、「エピステーメー」は存在するものに関するのだというわけです。
この『分析論後書』という書物は、知識やその学問的な論証がどのように成り立ちうるかということを論じたものですが、「知識(エピステーメー)」や「技術(テクネー)」がなにかということそのものについては述べていません。
そこで、アリストテレスの別の著作で補っておきたいと思います。『ニコマコス倫理学』にうってつけの説明があります。まず「エピステーメー」に関する議論から見てみましょう。
われわれが学問的に知る対象とは、「他の仕方ではけっしてありえないもの」である、と想定している。(中略)「学問的に知られるもの(エピステートン)」とは必然によって存在するものである。(中略)
学問的知識とは、「論証にかかわる状態(アポデイクティケー・ヘクシス)」であり(中略)人が、あるものを一定の仕方で信じていて、しかもその諸原理が彼に認識されているとき、その場合に、彼は学問的に知っていると言えるのである。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻第3章、1139b、朴一功訳、
西洋古典叢書、京都大学学術出版会、pp.260-261)
途中を省略していることもあって、少し分かりづらいかもしれません。ここでの関心に沿ってまとめ直すとこうなります。人が学問的知識(エピステーメー)を持っていると言えるのはどういう場合か。それは、必然によって存在するものについて、その諸原理を論証できるかたちで認識している場合だ、というのです。ここで「必然による存在」というのは、当世風に言い直せば、法則に従う自然や数学などのことです。アリストテレスは、他のなにかのためではなく、知るために認識することを哲学の営み(知るのを愛すること)だとも言っています(『形而上学』982b)。
他方で「技術」についてはどうか。同じ『ニコマコス倫理学』で、こう述べています。
あらゆる技術は事物の生成にかかわるのであり、技術の行使というのは、存在することも存在しないことも可能な事物、そしてその原理がつくる人の側にあって、つくられる作品の側にはないような事物、そうした事物がどのようにすれば生じるのかを「理論的に考察する(テオーレイン)」ことを基礎とする。すなわち、技術は、必然によって存在したり生成したりするものごとを対象とせず、また自然によって存在するものごとも対象としないのである。なぜなら、自然によって存在するものは、みずからの内に存在の原理をもっているからである。
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第6巻第4章、1140a、朴一功訳、
西洋古典叢書、京都大学学術出版会、pp.262-263)
ここでは「技術(テクネー)」というものが、事物の生成、つくることに関わっていると述べられています。先に見た「学問的知識(エピステーメー)」が対象とするような「必然によって存在するもの」や「自然によって存在するもの」とは区別されているのがポイントです。このアリストテレス先生による区別こそが、前回まで見てきたような「サイエンス(学)」と「アート(術)」の区別に響いていることがお分かりになると思います。
ついでながらもう一つ気になるのは、そうしたアリストテレスの見立てが、彼が書いたであろう古典ギリシア語ではなくラテン語訳で引用されていたことです。これはなぜでしょうか。
推測に過ぎませんが、二つばかり考えられることがあります。一つには、ヨーロッパにおいて長きにわたり種々のラテン語訳でアリストテレスが読まれてきた伝統があるからではないかと思います。また、英語のscienceやartの淵源は、古典ギリシア語の「エピステーメー」と「テクネー」にあるにしても、語の形の上からも直感的に見てとりやすいのは、そのラテン語訳であるscientiaとartesだという事情も働いているのかもしれません。
とにもかくにも議論の源である古典ギリシアの様子を見ましたので、再び西先生のほうへと引き返しましょう。「百学連環」そのものの読解に戻ります