タイプライターに魅せられた男たち・第109回

ジェームズ・デンスモア(2)

筆者:
2013年12月5日

オシュコシュを離れたデンスモア一家は、ウィスコンシン州の南端にあるエルクホーンという町に住むことにしました。エルクホーンは、州都マジソンと、ショールズが住むケノーシャとの、ほぼ中間に位置する小さな町でした。『State Democrat』と名づけた新聞をマジソンで発刊すべく、デンスモアとショールズは奮闘しました。しかし、資金もスポンサーも集まらず、デンスモアは、1853年10月に予定していた『State Democrat』発刊を、断念せざるを得なくなります。デンスモアは、ショールズの『Kenosha Telegraph』紙と、地元エルクホーンの『Elkhorn Independent』紙の編集を手伝うことにしました。

しかし、『Kenosha Telegraph』紙の経営は、火の車でした。デンスモアは一計を案じ、同じケノーシャの『Kenosha Tribune』紙との合併を画策します。1855年1月1日、『Kenosha Telegraph』と『Kenosha Tribune』は合併し、『Kenosha Tribune and Telegraph』紙となりました。合併と同時に、デンスモアは、ケノーシャでの新聞編集からは手を引き、『Elkhorn Independent』紙の編集に注力することにしました。

けれども、それもつかの間、妻のアーテリッサが亡くなります。残された長女ティナ(Tina Densmore)をペンシルバニア州の親戚に預けたものの、デンスモアは1857年6月、『Elkhorn Independent』紙の編集からも手を引きます。その後、エルクホーンやマジソンで共和党事務局の仕事を手伝った後、ミネソタ準州がミネソタ州に昇格(1858年5月11日)するや否や、州都セントポールへと移って共和党関係の仕事を続けました。さらに1860年3月からは、隣町のウィスコンシン州ハドソンで、『Hudson Chronicle』紙の編集者となっていますが、この年の7月に『Hudson Chronicle』紙は廃刊となってしまいました。

ペンシルバニア州に戻り、ウッドコック・クリークに帰り着いたデンスモアが見たものは、空前の石油ブームでした。オイル・クリークと呼ばれる一帯には油田が立ち並び、大量の石油がバラ積みの小船で積み出され、70マイル下流のピッツバーグまで、アルゲニー川を下っていました。一方、オイル・クリークからコリーに向けて、石油専用のオイル・クリーク鉄道が建設中でした。

ジェームズ・デンスモア(3)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。