オシュコシュを離れたデンスモア一家は、ウィスコンシン州の南端にあるエルクホーンという町に住むことにしました。エルクホーンは、州都マジソンと、ショールズが住むケノーシャとの、ほぼ中間に位置する小さな町でした。『State Democrat』と名づけた新聞をマジソンで発刊すべく、デンスモアとショールズは奮闘しました。しかし、資金もスポンサーも集まらず、デンスモアは、1853年10月に予定していた『State Democrat』発刊を、断念せざるを得なくなります。デンスモアは、ショールズの『Kenosha Telegraph』紙と、地元エルクホーンの『Elkhorn Independent』紙の編集を手伝うことにしました。
しかし、『Kenosha Telegraph』紙の経営は、火の車でした。デンスモアは一計を案じ、同じケノーシャの『Kenosha Tribune』紙との合併を画策します。1855年1月1日、『Kenosha Telegraph』と『Kenosha Tribune』は合併し、『Kenosha Tribune and Telegraph』紙となりました。合併と同時に、デンスモアは、ケノーシャでの新聞編集からは手を引き、『Elkhorn Independent』紙の編集に注力することにしました。
けれども、それもつかの間、妻のアーテリッサが亡くなります。残された長女ティナ(Tina Densmore)をペンシルバニア州の親戚に預けたものの、デンスモアは1857年6月、『Elkhorn Independent』紙の編集からも手を引きます。その後、エルクホーンやマジソンで共和党事務局の仕事を手伝った後、ミネソタ準州がミネソタ州に昇格(1858年5月11日)するや否や、州都セントポールへと移って共和党関係の仕事を続けました。さらに1860年3月からは、隣町のウィスコンシン州ハドソンで、『Hudson Chronicle』紙の編集者となっていますが、この年の7月に『Hudson Chronicle』紙は廃刊となってしまいました。
ペンシルバニア州に戻り、ウッドコック・クリークに帰り着いたデンスモアが見たものは、空前の石油ブームでした。オイル・クリークと呼ばれる一帯には油田が立ち並び、大量の石油がバラ積みの小船で積み出され、70マイル下流のピッツバーグまで、アルゲニー川を下っていました。一方、オイル・クリークからコリーに向けて、石油専用のオイル・クリーク鉄道が建設中でした。
(ジェームズ・デンスモア(3)に続く)