デンスモア(James Densmore)は、1820年2月3日、ニューヨーク州モスコーに生まれました。16歳の時、デンスモアは両親とともに、ペンシルバニア州ウッドコック・クリークに移り住み、弟たちや妹たちを養うべく、行商人として町から町へと渡り歩きました。独学で法律を学んだデンスモアは、28歳でペンシルバニア州の司法試験に合格しました。
1848年8月、ニューヨーク州バッファローで、自由土地党(Free Soil Party)の結党大会に参加したデンスモアは、翌月に同郷のアーテリッサ(Artelissa Finch)と結婚し、バッファローからミルウォーキーへと旅立ちました。ウィスコンシン州は、1848年5月29日に準州から州に昇格したばかりで、この当時、アメリカ合衆国で「最も若い」州だったからです。ミルウォーキー港に到着したデンスモア夫妻は、一路、北を目指し、オシュコシュという町に辿り着きました。この町でデンスモアは、自由土地党が主張する奴隷制度撤廃を訴えるべく、数多くの政治活動をおこない、その一環として新聞を発刊することにしました。
1849年2月9日、デンスモアは『Oshkosh True Democrat』紙を発刊しました。『Oshkosh True Democrat』紙は、毎週金曜日発行のタブロイド判で、最初の号は4ページ、内容は『American Metropolitan』誌などからの引き写し、ローカルニュース、広告、そしてデンスモア自身の政治的・社会的主張でした。4ページのうち、ほぼ1ページを広告に割くことで、デンスモアは『Oshkosh True Democrat』紙を、何とか軌道に乗せようとしました。1850年3月には、紙名を『Oshkosh Democrat』に改め、編集者にバーンサイド(George Burnside)を加え、記事の政治色を薄めることで延命を図ったのですが、それは、デンスモアの意に沿うものではなかったようです。
1853年1月13日、デンスモアとバーンサイドは、州都マジソンにいました。ウィスコンシン州の新聞編集者会議に出席するためでした。この会議でデンスモアは、『Kenosha Telegraph』紙の編集者ショールズ(Christopher Latham Sholes)に出会います。同じ奴隷廃止論者として、意気投合したデンスモアとショールズは、マジソンで新たな新聞の発刊を企てます。1853年4月1日、デンスモアは『Oshkosh Democrat』に関わる全ての権利を、バーンサイドとアレン(Chauncey J. Allen)に売却し、ほどなく、家族とともにオシュコシュを去りました。
(ジェームズ・デンスモア(2)に続く)