タイプライターに魅せられた男たち・第108回

ジェームズ・デンスモア(1)

筆者:
2013年11月28日
ジェームズ・デンスモア

デンスモア(James Densmore)は、1820年2月3日、ニューヨーク州モスコーに生まれました。16歳の時、デンスモアは両親とともに、ペンシルバニア州ウッドコック・クリークに移り住み、弟たちや妹たちを養うべく、行商人として町から町へと渡り歩きました。独学で法律を学んだデンスモアは、28歳でペンシルバニア州の司法試験に合格しました。

1848年8月、ニューヨーク州バッファローで、自由土地党(Free Soil Party)の結党大会に参加したデンスモアは、翌月に同郷のアーテリッサ(Artelissa Finch)と結婚し、バッファローからミルウォーキーへと旅立ちました。ウィスコンシン州は、1848年5月29日に準州から州に昇格したばかりで、この当時、アメリカ合衆国で「最も若い」州だったからです。ミルウォーキー港に到着したデンスモア夫妻は、一路、北を目指し、オシュコシュという町に辿り着きました。この町でデンスモアは、自由土地党が主張する奴隷制度撤廃を訴えるべく、数多くの政治活動をおこない、その一環として新聞を発刊することにしました。

1849年2月9日、デンスモアは『Oshkosh True Democrat』紙を発刊しました。『Oshkosh True Democrat』紙は、毎週金曜日発行のタブロイド判で、最初の号は4ページ、内容は『American Metropolitan』誌などからの引き写し、ローカルニュース、広告、そしてデンスモア自身の政治的・社会的主張でした。4ページのうち、ほぼ1ページを広告に割くことで、デンスモアは『Oshkosh True Democrat』紙を、何とか軌道に乗せようとしました。1850年3月には、紙名を『Oshkosh Democrat』に改め、編集者にバーンサイド(George Burnside)を加え、記事の政治色を薄めることで延命を図ったのですが、それは、デンスモアの意に沿うものではなかったようです。

1853年1月13日、デンスモアとバーンサイドは、州都マジソンにいました。ウィスコンシン州の新聞編集者会議に出席するためでした。この会議でデンスモアは、『Kenosha Telegraph』紙の編集者ショールズ(Christopher Latham Sholes)に出会います。同じ奴隷廃止論者として、意気投合したデンスモアとショールズは、マジソンで新たな新聞の発刊を企てます。1853年4月1日、デンスモアは『Oshkosh Democrat』に関わる全ての権利を、バーンサイドとアレン(Chauncey J. Allen)に売却し、ほどなく、家族とともにオシュコシュを去りました。

ジェームズ・デンスモア(2)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。