知の原風景
僕は、絵本よりも図鑑を好む子どもだったそうで、昆虫や魚、そして人体組織の図鑑を、文字通り座右としていたようです。要素としての絵は、小さな子どもにとっては文字よりも圧倒的に多い情報量で、それを1ルクスも見逃すまいと目を開き、背がほどけてしまうまで繰り返し、夢中になって読んだそうです。子どもの集中力は実に偉大です。ひらがなを知るようになっても、それは続きました。
たとえばその中で「外側側副靱帯」という言葉を知りました。腓骨と呼ばれる膝から足首までの骨と大腿骨を繋ぐ靱帯の名称です。この全く非日常な語彙も、「がいそくそくふくじんたい」という言葉の響きが、幼心に愉しくて、小さな僕は意味も分からず、歌うように口にしていたようです。
僕にとって、図鑑を読むことが知るということの始まりで、読書という体験の入り口だったのです。
たとえば、近い将来、現実が未来に追いついて、マシンたちが単純な労働から僕たちを解放してくれるような世界になったとしましょう。その日を生きる僕たちは、きっと今よりも、もっとリアルタイムに、そしてシームレスに、必要な知識をいつでもクラウドから取り出せるようになります。学生の本分というものが変容するくらいに、暗記という行為もなくなってしまうのかもしれません。
しかし人間は、そのような日が来ても、本能的に知識を蓄えてしまうし、知るという喜びを放棄することができないのではないかなと、僕は思うのです。なぜなら、生きるということを極論すれば、ただただ「ひとりで、あるいは誰かと、食事をして、寝る」という、ひたすらにこの繰り返しなのですが、この文章を読む僕たちはそれを信じません。人生の営みというものが、もっと豊かなものだと知っているからです。知ること、そしてそれを誰かと分かち合うことがない人生は、空っぽなんだと知っているからです。
記憶された知識を体系化したり、自分以外の人には無価値に近い知識を蒐集してしまうこと、その個々のアイデアは、ミルクに細かにうかんでいる脂油の球のように引きつけあって、セレンディピティよろしく、大きな独立した別のインスピレーションを生み出します。これが中毒性のある創造の喜びとともに、僕たちの知性をノックするのです。強く。
(残念ながら「外側側副靱帯」が、僕の人生で役に立ったことは一度もありませんけれども!)
子どもにとって自尊心と向上心は同義であり、ページをめくる毎に、さっきよりも立派になった自分を発見して、誇らしい気分になっていきます。
久しぶりの親許にて、彼の日に読んだ本に再会したとき、その無残な姿に驚くことがありますね。小さい頃には、背がボロボロになっていることさえ気がつきませんでした。それほどに夢中になって読んでいたのでしょう。
知性の原風景は図鑑の中にあります。
図鑑の背が崩れていくほどに、内なる王国は果てしなく広がり、その外壁は強固になっていくのです。