『日本国語大辞典』をよむ

第133回 帽子の名前

筆者:
2025年8月24日

渡辺温(1902-1930年)が「渡辺裕」名義で、『三田文藝陣』の1925年7月号に発表した「少女」には次のようなくだりがあります。「少女」は「青空文庫」で読むことができます。以下に「青空文庫」の「本文」を引用しました。

 井深君という青年が赤坂の溜池通りを散歩している。
 これは一昔若しくはもっと古い話である。今時の世の中にこんな種類の青年を考えることはあまりふさわしくない。
 中山帽子をかぶって、縁とりのモオニング・コートを着て、太い籐の洋杖を持って、そして口にはダンヒルのマドロス・パイプを銜えている。これが井深君の散歩姿である。
 井深君は銀座の散歩の続きか、或は活動写真を見た帰りか何かで、その春の夕暮れ時、あの物静かな通りを赤坂見附の方に向って、当もなくただ一人でぶらぶら歩いていたものと見える。

「中山帽子」には「ダービイ」という振仮名が施されています。『日本国語大辞典』の見出し「ダービー」では【二】(2)の語義として「黒フェルトの丸形の山高帽。ダービーハット」とありますので、それが振仮名になっているのだと思います。「中山帽子」は一瞬「ナカヤマボウシ」かと思いますが、そうではありません。『日本国語大辞典』には「ちゅうやまぼうし」という見出しがあり、そこには「ちゅうやまだか」に同じとあるので、見出し「ちゅうやまだか」「やまたかぼうし」も併せて示しておきます。

ちゅうやま‐ぼうし【中山帽子】〔名〕「ちゅうやまだか(中山高)」に同じ。*南小泉村〔1907~09〕〈真山青果〉三「新調の紬羽織に袴、気恥しい黒の中山帽子も被った」

ちゅう‐やまだか【中山高】〔名〕(「ちゅうやまたか」とも)頂の高さがあまり高くない山高帽。中山。ちゅうやまぼうし。*くれの廿八日〔1898〕〈内田魯庵〉四「左の手に鼠の中山高(チウヤマダカ)と鰐革の手提鞄を持ってゐた」*病院の窓〔1908〕〈石川啄木〉「外出(でかけ)る時は屹度中山高(チュウヤマタカ)を冠って、象牙の犬の頭のついた洋杖(ステッキ)を、大輪に振って歩くのが癖」

やまたか‐ぼうし【山高帽子】〔名〕男子用帽子の一種。フェルト製で堅く仕上げた、山の円く高い縁付の帽子。礼装用として黒色のものを和・洋服に用いるが、平常には色物を用いる。山高帽。*二人女房〔1891~92〕〈尾崎紅葉〉中・四「思ふ様縁の反った茶の山高帽子(ヤマタカバウシ)を冠り」*吾輩は猫である〔1905~06〕〈夏目漱石〉三「山高帽子とフロックコートを至急送れと云ふんです」

つまり、「ヤマタカボウシ」ほど高さがない「ヤマタカボウ」が「チュウヤマボウシ」だということになります。

『日本国語大辞典』にはいろいろな「~帽子」が見出しになっています。現代日本語ではお目にかからないような「~帽子」を幾つかあげてみましょう。

あげは‐ぼうし【揚羽帽子】〔名〕(形がアゲハチョウに似ているところから)「あげぼうし(揚帽子)」の異称。*浄瑠璃・日本西王母〔1699頃〕一「対の塗笠裏に薄絵の花づくし、あげは帽子にうしろ帯」

あげ‐ぼうし【揚帽子】〔名〕綿帽子の縁の垂れているのを引きあげた形のもの。近世、武家や庶民の上流家庭で物見遊山のとき、塵よけとしてかぶった。あげはぼうし。*閨秀〔1972〕〈秦恒平〉二「花笄、櫛かんざし、あげ帽子などつねはスケッチの方もおろそかにせず」

アゲハチョウに形が似ている帽子ってどんな帽子? と思いませんか。

うきよ‐ぼうし【浮世帽子】〔名〕江戸時代、元祿期(一六八八~一七〇四)に流行した当世風の帽子。色好みの帽子。*浄瑠璃・京四条おくに歌舞妓〔1708〕一「らくやうの花の、ぢょらうのなりふりは、うき世ぼうしをしゃんときて」

「当世風の帽子」ということは、決まった形があったわけではないのでしょうか。「色好みの帽子」と言われてもねえ。プレイボーイがかぶっていた帽子ということでしょうか。

おおさか‐ぼうし[おほさか‥]【大坂帽子】〔名〕江戸時代、正徳(一七一一~一六)の頃、大坂の婦人の間に流行した一種の綿帽子。*随筆・翁草〔1791〕一〇四「女は大坂帽子を被り、身には絹紬を着るを上品として」

『日本国語大辞典』は「おおさかぼうし」には挿絵を添えています。

おかま‐ぼうし【御釜帽子】〔名〕山高帽子など頂きが釜をさかさにしたようにまるい帽子の俗称。おかまぼう。*東京風俗志〔1899~1902〕〈平出鏗二郎〉中・七・帽子と頭布「鳥打・ホックがけ・大黒帽子・お釜帽子の如きは簡略なるものとして用ひらる」*今年竹〔1919~27〕〈里見弴〉茜雲・二「耐火のお釜帽子を被っただけで、わざと洋傘は拡げずに」

この説明からすれば、「ヤマタカボウシ」は「オカマボウ」であることになります。帽子の名前は、具体的・個別的な名前と、ある形をした、という総称とがあり、複雑ですね。『日本国語大辞典』は帽子のように、具体的な指示物がある場合には、ある程度挿絵を入れていますが、それでも挿絵は限られているように感じます。インターネットで帽子の名前を調べると、画像入りで説明を読むことができます。これからの辞書は、説明は文字で、画像はインターネットで、という形式になっていくかもしれないですね。

筆者プロフィール

今野 真二 ( こんの・しんじ)

1958年、神奈川県生まれ。高知大学助教授を経て、清泉女子大学教授。日本語学専攻。

著書に『仮名表記論攷』、『日本語学講座』全10巻(以上、清文堂出版)、『正書法のない日本語』『百年前の日本語』『日本語の考古学』『北原白秋』(以上、岩波書店)、『図説日本語の歴史』『戦国の日本語』『ことば遊びの歴史』『学校では教えてくれないゆかいな日本語』(以上、河出書房新社)、『文献日本語学』『『言海』と明治の日本語』(以上、港の人)、『辞書をよむ』『リメイクの日本文学史』(以上、平凡社新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『振仮名の歴史』『盗作の言語学』(以上、集英社新書)、『漢和辞典の謎』(光文社新書)、『超明解!国語辞典』(文春新書)、『常識では読めない漢字』(すばる舎)、『「言海」をよむ』(角川選書)、『かなづかいの歴史』(中公新書)がある。

編集部から

現在刊行されている国語辞書の中で、唯一の多巻本大型辞書である『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000年~2002年刊)は、日本語にかかわる人々のなかで揺らぐことのない信頼感を得、「よりどころ」となっています。
辞書の歴史をはじめ、日本語の歴史に対し、精力的に著作を発表されている今野真二先生が、この大部の辞書を、最初から最後まで全巻読み通す試みを始めました。
本連載は、この希有な試みの中で、出会ったことばや、辞書に関する話題などを書き進めてゆくものです。ぜひ、今野先生と一緒に、この大部の国語辞書の世界をお楽しみいただければ幸いです。