新字の「楽」は常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「樂」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。新字の「楽」も旧字の「樂」も、出生届に書いてOK。どうして、こんなことになったのでしょう。
大日本帝国陸軍が昭和15年2月29日に通牒した兵器名称用制限漢字表は、兵器の名に使える漢字を1235字に制限したものでした。三省堂編輯所の『常用漢字新辞典』をもとに、おおむね尋常小学校4年生までに習う漢字959字を一級漢字とし、これに兵器用の二級漢字276字を加えて、合計1235字を兵器の名に使える漢字として定めたのです。この一級漢字の中に、新字の「楽」が含まれていて、カッコ書きで旧字の「樂」が添えられていました。
昭和17年6月17日、国語審議会は標準漢字表を、文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、部首画数順に2528字が収録されており、木部に旧字の「樂」が含まれていました。新字の「楽」は含まれていませんでした。
昭和21年4月27日、国語審議会に提出された常用漢字表1295字でも、木部に旧字の「樂」が含まれていて、新字の「楽」は含まれていませんでした。国語審議会が11月5日に答申した当用漢字表でも、旧字の「樂」だけが含まれていました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、旧字の「樂」は当用漢字になりました。ただし、当用漢字表のまえがきには「字体と音訓の整理については、調査中である」と書かれていました。当用漢字表の字体は、まだ変更される可能性があったのです。
字体の整理をおこなうべく、文部省教科書局国語課は昭和22年7月15日、活字字体整理に関する協議会を発足させました。活字字体整理に関する協議会は、昭和22年10月10日に活字字体整理案を国語審議会に報告しました。この活字字体整理案では、「樂」を「楽」へと整理することが提案されていました。報告を受けた国語審議会では、昭和22年12月から昭和23年5月にかけて、字体整理に関する主査委員会を組織しました。この間、昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「樂」が収録されていたので、「樂」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。新字の「楽」は、子供の名づけに使えなくなりました。
昭和24年4月28日に内閣告示された当用漢字字体表では、新字の「楽」が収録されていました。活字字体整理案に従った結果、新字の「楽」が当用漢字となり、旧字の「樂」は当用漢字ではなくなってしまったのです。当用漢字表にある旧字の「樂」と、当用漢字字体表にある新字の「楽」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、旧字の「樂」も新字の「楽」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。つまり、昭和24年の時点で、旧字の「樂」も新字の「楽」も、どちらも出生届に書いてOKとなったのです。
昭和56年3月23日、国語審議会が答申した常用漢字表では、「楽(樂)」となっていました。これに対し、民事行政審議会は、常用漢字表のカッコ書きの旧字を子供の名づけに認めるかどうか、審議を続けていました。昭和56年4月22日の総会で、民事行政審議会は妥協案を選択します。常用漢字表のカッコ書きの旧字355組357字のうち、当用漢字表に収録されていた旧字195字だけを子供の名づけに認める、という妥協案です。昭和56年10月1日に常用漢字表は内閣告示され、「楽」は常用漢字になりました。同時に「樂」は人名用漢字になりました。それが現在も続いていて、旧字の「樂」も新字の「楽」も、どちらも子供の名づけに使えるのです。