『日本国語大辞典』は俗語、隠語の類も見出しとしている。
おうみょうどうふ【王明動不】〔名〕不動明王の像をさかさまにして、人を呪詛(じゅそ)するところから、その名を逆にしたのろいのことば。
「オウミョウドウフ」ってどんな豆腐? と思ったら、いやはや恐ろしいものでした。使用例には「雑俳・川傍柳〔1780~83〕」があがっているので、江戸時代にはあった語であることがわかる。こうした「さかさことば」の類は少なくない。
さかさことば【逆言葉】〔名〕(1)反対の意味でつかうことば。「かわいい」を「憎い」という類。さかごと。さかことば。(2)語の順序や、単語の音の順序を逆にして言うこと。「はまぐり」を「ぐりはま」、「たね」を「ねた」という類。さかごと。さかことば。
「ネタ」は現在でも使う語だ。『日本国語大辞典』は「ネタ」を次のように説明している。
ねた〔名〕(「たね(種)」を逆に読んだ隠語)(1)たね。原料。また、材料。(2)(略)(3)新聞・雑誌の記事の特別な材料。(以下略)
語義(3)の使用例として「新しき用語の泉〔1921〕〈小林花眠〉」の「ねた 種を逆に言ったもので、新聞記事の材料のこと。三面記者などの仲間に用ひられる」があげられている。「ネタ」は小型の国語辞書、例えば『三省堂国語辞典』第7版も見出しにしている。
『日本国語大辞典』をよみすすめていくと、いろいろな「さかさことば」にであう。
おか〔名〕(「かお」を逆にした語)顔をいう、人形浄瑠璃社会および盗人・てきや仲間の隠語。〔隠語輯覧{1915}〕
おも〔名〕(牛の鳴き声「もお」を逆にした語か)牛をいう、盗人仲間の隠語。〔特殊語百科辞典{1931}〕
かいわもの【―者】〔名〕(「かいわ」は「わかい(若)」を逆にしたもの)若い者、ばくち仲間の子分をいう、博徒仲間の隠語。〔特殊語百科辞典{1931}〕
かけおい【駆追】〔名〕(「おいかけ」の「おい」と「かけ」を逆にした語)追跡されることをいう、盗人仲間の隠語。〔日本隠語集{1892}〕
かやましい〔形口〕(「やかましい」の「やか」を逆にしたもの)官吏、役人などの監督が厳格である、という意を表わす、てきや・盗人仲間の隠語。〔日本隠語集{1892}〕
きなこみ〔名〕(「きな」は「なき」を逆にした語で、「泣き込み」の意)でたらめの泣きごとを訴えて同情を得、金品を恵んでもらうことをいう、てきや仲間の隠語。〔隠語輯覧{1915}〕
ぐりはま〔名〕(「はまぐり(蛤)」の「はま」と「ぐり」を逆にした語)(1)かわりばえのしないこと。たいした違いがないこと。ぐりはまはまぐり。(2)物事の手順、結果がくいちがうこと。意味をなさなくなること。ぐりはまはまぐり。ぐれはま。ぐれはまぐり。
げんきょ【言虚】〔名〕(「虚言(きょげん)」を逆にした語)詐欺的行為をいう、盗人・てきや仲間の隠語。〔隠語輯覧{1915}〕
げんきょう〔名〕(「きょうげん(狂言)」の「きょう」と「げん」を逆にした語)芝居のことをいう、盗人・てきや仲間の隠語。〔日本隠語集{1892}〕
ごうざい【郷在】〔名〕(「在郷」を逆にした語で、もと、人形浄瑠璃社会の隠語)いなか。または、いなか者。
「ぐりはま」の使用例には「玉塵抄〔1563〕」があげられており、16世紀にはすでにあった語であることがわかる。「さかさことば」にも歴史がある。「ごうざい」の使用例には「滑稽本・戯場粋言幕の外〔1806〕」がまずあげられているので、19世紀初頭にはあった語であることがわかる。
どうしても細かいところが気になる性分なので、いささか細かいことを述べるが、見出し「かやましい」では「てきや・盗人仲間の隠語」とあって、見出し「げんきょ」「げんきょう」では「盗人・てきや仲間の隠語」とあることには何か意図があるのだろうかなどと思ってしまう。また見出し「げんきょ」と「ごうざい」とでは、「言虚」「郷在」という漢字列を示しているが、見出し「げんきょう」では「言狂」を示していない。また見出し「げんきょう」と「ごうざい」とはともに4拍語で、語の成り立ちが似ているように思うが、見出し「げんきょう」を「ごうざい」と同じように、「「狂言」を逆にした語」と説明することはできないのだろうか。それぞれ何か意図があるのかもしれないが、それがうまくよみとれない。
上にあげた見出しの語釈では「逆にした」という表現が使われているが、その「逆」の内実はさまざまである。「もお」の逆が「おも」であるという場合は、仮名で書かれている文字列を文字通り逆からよむ、というようなことであるが、「「かいわ」は「わかい(若)」を逆にした」という場合の逆は、そうではない。「わかい」を下からよめば「いかわ」になってしまうので、「文字を入れ替えた」というような表現があるいはふさわしいかもしれない。
筆者は、見出し「げんきょ」をみて、「ほお」と思った。それは漢語「キョゲン(虚言)」のさかさことばだったからだ。当たり前のことであるが、さかさことばが理解されるためには、もとのことばがわかっていなければならない。「キョゲン(虚言)」をひっくりかえして使うことができる「(文字)社会」では「キョゲン(虚言)」という漢語が使われていた可能性がたかい。「げんきょう」や「ごうざい」も同じように考えることができる。どのような漢語がどのような「(文字)社会」で使われていたかを考えることは、最近、筆者が取り組んでいることであるが、そういうこととかかわりがある。
上で出典となっているのは『隠語輯覧』『特殊語百科辞典』『日本隠語集』である。今までこういう「方面」のことを調べたことがなかったので、手始めにと思って、『隠語輯覧』と『日本隠語集』とを入手した。いろいろな隠語が載せられていて、おもしろかった。
さて、最近バブル期をネタにしている女性の芸人がいて、「ギロッポンでシースー」などと言っている。いうまでもなく「六本木で鮨」ということだが、筆者などは(冗談ではなく)ほんとうにこんな語が使われていたのだろうか、と思ったりもする。『日本国語大辞典』には「ギロッポン」も「シースー」も見出しになっていない。それは「新語に強い」ことを謳う『三省堂国語辞典』第7版も同じだ。はたして、これらの語が辞書の見出しになる日は来るのか来ないのか。
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※特に出典についてことわりのない引用は、すべて『日本国語大辞典 第二版』からのものです。引用に際しては、語義番号などの約物および表示スタイルは、ウェブ版(ジャパンナレッジ //japanknowledge.com/)の表示に合わせております。