「陰表」と「陽表」の話が続きます。これは、真理を知るための二つの道で、それぞれ negative と positive に対応する訳語でした。
凡そ宇宙の大イなる測り知る能はさるものなれは、太陽も、世界も、宇宙より是を見るときは極微物といひつへし。其中世界も數多あるものなれは、其世界の太古より老て破壞するものあり、又は今より成立ものもあるへし。
(「百學連環」第41段落第6文~第7文)
現代語にしてみましょう。
およそ宇宙は広大であって、〔人間にはその全貌を〕はかり知ることはできない。太陽にしろ世界にしろ、宇宙からこれを見た場合、とても小さなものに過ぎない。中には世界もたくさんあり、その世界の中には太古から続き衰えてゆくものもあれば、これから出来てゆくものもある。
そう、西先生は negative な真理への迫り方を説明するために、具体例として「星雲(霧斑)」を挙げていたのでしたね。その天文学、宇宙論の話が続いているわけです。
ここでは、まず宇宙の広大さを述べておいてから、それに対して太陽や世界(この場合は私たちが住む地球を念頭に置けばよいでしょう)がいかに小さなものかという、視覚に訴えるような強烈な対比をしています。
さらに、私たちにとってはそれでも十分広いこの世界と同じようなものは、宇宙にいくらでもあるのだと畳みかけています。
その際、西先生はそうは言っていませんが、まるで「おい、われわれが住み、どうかすると広くて唯一無二の価値あるものだぐらいに思い込んでいるこの世界(地球)というものは、宇宙全体からしてみたら、所詮たいしたものではないのだぞ」とほのめかしているようにも思えます。
そして、ここまではもっぱら空間に関しての話でしたが、それに続けてさらに時間についても言及されています。世界はたくさんある。その中には、古いものもあれば、これから生まれるものもあるだろうという次第です。
要するに、私たちがいるこの世界、地球を、空間と時間の二つの点から、一挙に相対化してみせていると言ってよいでしょう。
それにしても、西先生は、なぜそんなことを言うのでしょうか。ひょっとしたら穿ちすぎかもしれませんが、このくだりを読みながら、こんなふうに解釈できると思いました。
先にも触れたように、第101回で「霧斑(星雲)」というなんの役に立っているのか分からないものが俎上に載せられました。われわれは「霧斑」をわけの分からないもの(陰表=消極)だと言うけれど、そういうわれわれがいるこの世界、霧斑に比べたらわけが分かっている地球(陽表=積極)にしたって、大宇宙からしたら芥子粒のようなものだ。どこに視点を置くかによって、この二つは入れ替わりうるのだぞ――西先生の対比にはそんな意味があるように感じたのでした。
ところで、こうした感覚は、宇宙を舞台とした数々の映画や小説を当たり前のように見たり読んだりする私たちには、むしろ馴染みのあるものかもしれません。それこそイームズたちが撮った「Powers of Ten」(1977)で、地上を飛び立って宇宙に昇ってゆくカメラから、地球がどんどん小さくなって、やがてほんの小さな光の点になってしまう様子を見れば、「宇宙より是を見るときは極微物といひつへし」という言葉も文字通り実感できるというものです。
あるいは、NASAのマーズ・パスファインダー計画やマーズ・エクスプロレーション・ローバー計画のように、火星に探査機を送り込んで撮影された映像を見ると、地上からは光の点にしか見えない火星に「其中世界も數多ある」ことが分かります。
もちろん西先生が「百学連環」を講義した時分には、そうした映像も技術もまだ存在せず、肉眼と望遠鏡を通じて宇宙を観測していたわけです。
さて、この箇所についてもう一つ述べてみたいことがあります。ここで宇宙について言われていることは、この講義全体のテーマにも重ねて見ることができそうです。つまり、宇宙と地球や霧斑の対比を、百学(あらゆる学)とその中にある一つの学の関係にも見立てられるのではないでしょうか。
西先生は、一見なんの役に立つか分からない「陰表(消極)」についてもできるだけ知るべし、なんとなれば、陰表はめぐりめぐって「陽表(積極)」に至るからだと言いました。解釈者の出しゃばりではありますが、この指摘の意味をいっそう鋭くするためにも、もう一言添えて、「ただいま現在の自分には、一見なんの役に立つか分からないことであれ」と読んでみたいと思います。
百学を一望してみること、諸学の連環を見てみるという「百学連環」の企てには、いろいろな意味と意義があるでしょう。その一つは、視野を一学のみに限定しないということがあるはずです。学者や研究者であれば、百学の中で自分が立っている場所こそが、地球のようなものでしょう。そこから見える、星屑は果たして意味や価値のないものなのかどうか。百学という宇宙全体からすれば、どの学も「極微物」ではあるまいか。誤解なきよう申せば、西先生は極微に見えるから価値がないと言っているわけではありませんでした。むしろ、いま自分がいる場所から極微に見えて、無価値に見えるものは、本当に無価値なのかと、逆のことを問いかけているのです。
このように、ここで論じられつつある「積極(陽表)」と「消極(陰表)」という二つの真理への迫り方の関係は、おそらくそのまま人間の知識や学術の体系についても言えるはずです。それはただいま現在の必要でもって、或る学の有益さを捉えてしまうものの見方に対する根底的な批判にもなりえるものです。そういう底意地も持ちながら、この陰表/陽表を巡る議論を、引いては「百学連環」という大きなテーマを、引き続き追ってみたいと思います。