ちょっとオオゲサな言い方をすると、日本で最もよく知られている「エンチクロペディー」といえば、それはたぶんヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)によるものだと思います。
試しに書籍データベースや検索エンジンで、「エンチクロペディー」を検索すると、多くの場合、ヘーゲルの名前とセットになって出てきます。
実際、ヘーゲルは、ハイデルベルクやベルリンの大学で、「エンチクロペディー」という語を冠した講義を行っており、その講義の手引きを刊行しています。『哲学的諸学のエンチクロペディー 綱要(Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse)』というタイトルですが、しばしば『エンチクロペディー』と略した形で呼ばれています。
この講義は何度か行われ、また、書籍版のほうも、1817年に最初の版を刊行してから、何度か増補されています。日本語訳も複数種類が出ていて、私が目にしたなかで最も古い翻訳は、1905年(明治38年)のものでした。21世紀に入ってからも何種類か出ているほどで、連綿と読み継がれている様子が窺えます。
もう少し具体的に見ると、ヘーゲルの「エンチクロペディー」は大きく三つの部分から構成されています。つまり、「論理学」「自然哲学」「精神哲学」です。
「論理学」とは、人間が世界を理解したり、ものを考えようとする際、どのように思考すれば真理(世界の真相)に近づけるかということを問題にする学術です。また、「自然哲学」では、世界や宇宙の仕組みやありようを探究し、「精神哲学」では、人間精神やその産物である共同体や社会、そこで実践される法や道徳、あるいは芸術や宗教、哲学といったものを見渡します。
言ってしまえば、世界を構成すると目される「物質(自然)」と「精神」の二大要素の全域をカヴァーして、それを人間が思考・理解するための道具となる「論理」を検討にかけようというわけです。これはある意味で、古代ギリシアやローマにおける学術体系のあり方をヘーゲルなりに換骨奪胎した学術全域の姿だと言えます。もちろんこのことは、私たちがここで読み進めようとしている西先生の「百学連環」とも多いに関係するところでもあります。
では、ヘーゲルが言うところのエンチクロペディーとはなんなのか。ここ何回かの検討から、すでにその正体は明らかになっていると思いますが、念のため、ヘーゲル先生の言葉を覗いておくことにしましょう。ヘーゲルは「エンチクロペディー」全体への「序論」で、こんなふうに述べています。
「集大成(エンチクロペディー)」の形をとる学問は、特殊な部分までがくわしく展開されることはなく、各部門のはじまりと、特殊な学問の根本概念との提示をもってよしとしなければならない。
≪注解≫特殊な部分のどこまでを特殊な学問の構成に組みいれたらいいのかは、原則を立てにくい。部分が真理だといえるためには、個々ばらばらにあるだけではなく、それ自体が一つの総体性をなさねばならない以上、どこまで組みいれるか明確な線を引くことができない。哲学の全体は、本当をいえば、単一の学問をなすが、その一方、いくつかの特殊な学問が集まって一つの全体をなすものと見ることもできる。
(ヘーゲル『哲学の集大成・綱要 第一部 論理学』、長谷川宏訳、作品社、2002)
まず注目しておきたいのは「エンチクロペディー」の訳語です。長谷川氏は、従来カタカナで「エンチクロペディー」と音写して済まされがちだったこの語を「集大成」と訳すことで、読んで一応意味の分かる訳文に仕立てています。前例としては、「哲學躰系(エンチュクロペディー)」(小田切良太郎・紀平正美訳、1905)、「哲學集成」(戸弘柯三訳、1930)などがあります。
ヘーゲルはここで、エンチクロペディーが当該学問領域(哲学)の概観を与えるものであること、また、その学問領域を構成する諸学問は、個別ばらばらにあるだけでなく、全体として一つの学問をなすべきだと述べています。これはまさに、ここ数回見てきた他の学術領域のエンチクロペディーと同様の説明ですね。
ただし、ヘーゲル先生はこの後に、同じエンチクロペディーといっても、哲学とそれ以外の学術ではわけが違うのだと強調しています。つまり、哲学以外では、「学問とは名ばかりで、実態は知識のたんなる寄せ集めにすぎない」エンチクロペディーもあると言うのです。具体例として名指しされているのは、文献学(Philologie)と紋章学(Heraldik)です。なにもここでケンカを売らんでも、とも思いますが、かえって気になる存在だったのかもしれません。ともあれ、当時(19世紀初め)の大学において、哲学以外にもいろいろなエンチクロペディーが開講されていた様子が、このくだりからも垣間見えますね。
さて、そろそろエンチクロペディーを巡る旅を終えて、「百学連環」に戻りたいと思います。