前回は、文は道を載せるものであり、古来中国では、文章をもって人を枚挙し、文事によって人を選んだという話でした。文章がいかに重要であり、重視されていたかという次第。これに続けて、日本の場合に議論が及びます。
日本にても古昔の役人たるものは、多く菅江の兩家に取れり。是卽ち文章ある故なり。文章の學術に關係する最も大なりとす。後ち王室衰へ、文章地に堕ち傳らすと雖も、楠公の如きは聊か文章ある人なるへし。故に名將の名を得たり。卽ち楠公の語に非理法權天、此五字に至りても楠公素より纔かの文事あるのみなるか故に、更に語ヲ爲さすと雖も、其意に至りては實に千古の金言と云ふへし。
(「百學連環」第26段落第10~15文)
訳してみます。
日本においても、昔の役人たるものは、その多くが菅原家と大江家から輩出されたものだ。これはなぜかといえば、彼らに文章の才があったからである。文章こそが、学術に関係する最大のものとされていたのだ。後に王室が衰えて、文章も地に堕ちてしまい、後に伝えられなくなってしまったけれど、楠木正成のようにいくらか文章の書ける人もあった。そのために彼は名将と呼ばれたのである。つまり、正成公に「非理法権天」という言葉があるが、この五文字にしても、正成公に少しだけ文章の才があったからこそ、これ以上の語を費やすこともなく、その意味はまさに永遠の金言というべきものになっているのである。
ご覧のように、日本の事例が紹介されています。
原文に見える「菅江の兩家」とは、訳文に示したように菅原家と大江家のこと。
この両家は、上代の大学寮に置かれた「文章道」という学科の指導者たる「文章博士」の地位を代々継ぐようになった家でした。当時の大学寮は、朝廷の機関であり、いってみれば役人の養成所のようなものです。
例えば、大江匡衡(952-1012)の詩文集『江吏部集』には、「菅江両家始祖建立文章院東西曹」といった注が見えます。「文章院」とは、大学寮の建物のこと。当世風に云えば研究棟とでもなりましょうか。東曹は大江家が、西曹は菅原家が管轄したということを、この文章は示しています。西先生の話も、こうした経緯に触れているのでしょう。
このくだりには、欄外に注記があり、そこにはこう記されています。
大江廣元ヲ以て本朝封建の始祖とす。其働キ全ク文章の助ケに出るなるへし。
方今徳川氏ヲ廃し郡縣の體ニ移リシモ、文章の大なる助ケあるなり。然れとも其據ロは一朝一夕の變遷スル所ニ非サルなり。蓋シ其の根元は水戸黄門ノ日本史ヲ作ルにあり。後チ尚ホ山陽先生の如キモノあるに依レリ。
訳せばこうなるでしょうか。
大江広元をもって本朝における封建の始祖とする。その働きは、まったくもって文章の助けによるものである。
この頃、徳川氏が廃されて、郡県制度に移行したが、ここでも文章が大きな助けとなっている。とはいえ、そのよりどころは、一朝一夕で移り変わってしまうようなものではない。思うに、その根源は水戸黄門による『大日本史』の編纂にある。その後にも、頼山陽先生の〔『日本外史』の〕ようなものがあることに依っているのである。
これもまた国政において文章の果たした役割について述べた補足のようです。大江広元(1148-1225)については、おそらく彼が鎌倉幕府において、源頼朝の下で公文所(後、政所)という文書管理機関の別当(長官)として活躍したことが念頭に置かれているのでしょう。
また、水戸黄門こと徳川光圀(1628-1701)の『大日本史』と頼山陽(1781-1832)の『日本外史』は、いずれも幕末の志士たちの思想に大きな影響を与えたとされている書でした。西先生も、ここでこれらの書が時代を動かしてゆく力となったことに触れています。
楠公については、次回述べることにしましょう。