『アバター』はハリウッド映画です。世界中で上映されましたが,観客としてアメリカ人を第一に想定しています。偏りのあるキャスティングの意味をよく理解するには,人種の違いをアメリカ人がどのように受け止めているか考える必要があります。
そこで少し回り道になりますが,私がアメリカで経験したことをお話ししようと思います。もう,15年も前のことで今では事情が変わっている点もありますが,人種のとらえ方を示す一例としてお考えください。
ペンシルベニア州のピッツバーグ市に1年ほど住んでいました。スクワレル・ヒル(Squirrel Hill;リスが丘?)というところです。スクワレル・ヒルはその地方最大のユダヤ人居住地域です。古くからある住宅地で,住民は白人がほとんど。そして,その多くがユダヤ系でした。実際,両隣も,お向かいもユダヤ系の家族が住んでいました。
しかも正統派のユダヤ教信者が多く,土曜日(安息日)や祝日には,あごひげを蓄えた男性が,黒い帽子に黒いロングコートといった服装で歩いています。その祝日も国が定めた(キリスト教的な)ものとは異なるユダヤの祝日です。宗教・文化・風習がほかの地域と異なるのです。道を隔てると住民の人種・文化的背景が異なっているという状況は,合衆国ではべつに珍しいことではありません。
この地域を住まいに定めた理由はいろいろあります。治安がよく,生活至便で,大学までバスで1本。しかも,外国人に対する英語教育プログラムのある唯一の公立小学校・幼稚園がその地区にあったからです。小学校に行く息子と,幼稚園に行く娘がいるのでちょうどよかったのです。
息子の小学校デビューは,衝撃でした(幼稚園より始業が1週間早かったのです)。生徒のおよそ8割以上が,アフリカ系の子弟で占められていたからです。息子のクラスは総勢23名でしたが,いわゆる白人の女の子が1人,メキシコ系の男の子が1人,そして日本人が1人(息子のことです)。残りはすべて黒人でした。
いったい,この黒人の子どもたちはどこから来たのか。ユダヤ系やほかの白人の子どもたちはどこへ行ったのか。
その日は,ただただ不思議でした。でも,すぐに合点が行きました。
ユダヤ人の子弟は,皆,ユダヤ人学校に行きます。スクワレル・ヒルには3校ありました。そこで小学校1年生からみっちり授業を受けます。
非ユダヤ系の白人の子弟は,たいてい私立の小学校へ通っていました。授業料が無料の公立と,授業料が高額な分,設備の整った私立とでは,どうしても教育のレベルや環境に差がありました。実際この小学校は,息子が通う数年前にはかなり荒れていたそうです。それで白人の家庭は皆,子どもを私立に通わせたのでしょう。
つまり,近隣の子どもはほとんど,別の学校に通うのです。しかし,校区は思いのほか広く,別の地区からスクールバスに揺られてアフリカ系の子どもたちが登校していました。
人種のるつぼと言われたアメリカですが,とくに子どもの世界は人種の別によって隔てられることが多いようです。しかも,ティーンズ(13歳以上)になるまでは,安全面の配慮から,親と一緒に行動することが求められます。家で子どもだけで留守番させるのも御法度です。勝手に自転車に乗って遊びに出て行くなんて,少なくとも都市部では考えられません。アメリカの子どもの世界は思いのほか狭いのです。
ここで私が述べているのは,人種差別ではなく,人種の分離についてです。肌の色や体格など,人種の違いは見た目に明らかな差異をもたらします。しかし,外見だけでなく,地理的にも,経済的にも,そして文化的にも歴然とした違いがあります。
今回お話しした,白人の居住地域の小学校に黒人の子たちばかりがいるという逆転現象は,極端なケースです。(現在ではこの学校の生徒数は当時に比べ倍増し,白人の子どもたちが全校生徒の半数を占めています。)ですが,そういったことが引き起こされる素地は,現在も存在します。そして,人種と人種のあいだには,違いからもたらされる距離感が存在します。
この距離感を映画『アバター』はナヴィとアバターとの微妙な区別をもうけるために利用しているのです。そこに感じられるのは,マジョリティのアメリカ人の視線です。総人口のほぼ4分の3を占める白人の目線です。
観客の多くは,ナヴィとアバターとのあいだに見られるキャスティングの偏りには気づきません。提示された情報が日頃当たり前に共有している枠組みに従っているときは気づきにくいものです。枠組みから外れてはじめて疑問がもたげてくるのです。
次回は,映画が提示する情報と観客の受け取り方について,もう少しお話しします。