新潟とは何かとご縁があるようで、しばしば訪れるうちに、『大漢和辞典』編纂を指揮した諸橋轍次博士の記念館にもうかがえた。下田(しただ)がまだ村だったときに建てられた立派な施設で、そこでは貴重な資料まで見せていただいた(そこには驚くべきものがあったので、その成果はいずれまとめたい)。編纂作業所となった遠人村舎跡の一つは、都内の比較的近くにあったことが分かり、散歩がてらカメラを片手に寄ったこともある。
また、たまたま電車を降りた塩沢では、鈴木牧之記念館に逢着したこともあった。子供を下の階で遊ばせながら、『北越雪譜』全冊に目を通すことができた。出版を巡って彼に関わった江戸の作家たちの姿も垣間見られた。
講演会の前日、主催される方々が會津八一記念館に連れて行って下さった。駅周辺だけで2日間を終えるのは惜しいので、とてもありがたい。八一の人柄に意外と険しい面もあったことを噂には聞いていたが 魯山人とは書をめぐる考え方や作風の差もあり、その因縁の深さに驚く。かつて大学の文学部の教授にはこういう先生もいたものだ、と思えるような気もする。もともと左利きだった八一は、右手で字を書くようになり、新聞活字から独自の書を構築したとあちこちで聞いた。そういえば良寛さんもこの地の人だ。
有名な魯山人の自画像らしき顔文字は、実はそもそも誰を書いたものかも分かっていないそうだ。未来への謎かけは、酔って興じてのことか。後で送ってくださった『新潟日報』の題字も、改めてみると八一の個性の出た字だった。八一は、熱心に集めた書籍や資料を空襲ですべて失ってしまったそうだ。
昨年は、地名や世阿弥の研究で名高い吉田東伍の記念館で、明治の人の向学心と超人的な記憶力に驚嘆した。南方熊楠といい、メディアが限られていた時代だからもちえた開拓者の才能だろうか。偉業の裏にあった集中力の一端を見た。筆字の「嵜」など、展示品からの収穫も多い。「糸魚川 相馬御風先生」、封書の宛名がこれだけで、きちんと届いたようだ。当時の著名人はやはり違う、と各地で実感する。古い物では「新潟市」の2字目に「瀉」のような字体も見られる。
「堕落論」などを残した坂口安吾の記念館の前も通った。大学には安吾を好む女子の院生もいる。残念ながら時間切れで、また今度となったが、かように多彩な人物を輩出してきた地である。
翌日、話をする会場には、ホテルのフロントから地上に降りることなく、行けた。ただ、エスカレーターがなぜか止まっている。近づくとブザーが鳴って、4階まで上がれない。迷っていると、閉まった商店の黒板が目に入る。
さらに、別の黒板に行き着き、
それぞれ別の人の筆跡のようだ。中の斜線の向きが違う。中にルビのように入れて書いたものは、読めない人もいるだろうという思いやりによるものだろうか。やはり道なんてものは迷うもので、良い物を写真に撮れた。これも、今からの漢字にまつわる話に組み込める。
会場には、大学の熱心な教え子がわざわざ来てくれていた。あらかじめ、「講義と重なる話もあるかも」と振ると、「どうせ忘れていますから」とあっさり。もしかしたら、話を印象に残せないような先生がいけないのか、両方ともいけないのか、どっちなのだろう。