「タートルネック」や「ハイネック」のことを「トックリ」と言う。「けっきょく」と言えばいいところで「要するに」と言う。どうかすると「畢竟(ひっきょう)」と言う。しまいには「生存還付給付金付きの終身医療保険が……」みたいなことまで口走る――こんなことはみな『子供』にはできない。流行遅れのことばづかい、古くさいことばづかい、小難しいことばづかいは『大人』の専売特許である。というのは、そもそも『大人』というものは、とかく流行遅れで古くさく、小難しいことを言いたがる(あるいは言わねばならない)ものだからである。
そういえば、「あなたも体に気をつけて」のような相手を気遣う儀礼的なことばづかいも、『大人』の技であった(第22回)。これもやはり、『大人』というものが相手を気遣うものだからである。これらは今さら言い立てるほどのこともない、常識に属する事柄だろう。
だが、『大人』の物言いは、こうした「そもそも『大人』とはこれこれこのようなものだからこういうことばをしゃべるのだ」といった「常識言語学」でとらえ尽くせるものではない。このことの一部は、すでに見てきたことでもある。
たとえば、「ふーん」「へぇ」と違って、「はぁ」「ほぅ」は『大人』の物言いである(第23回)。このことを「そもそも『大人』とはこうしたものだ」という常識から説明する見通しなど、立ちはしないだろう。
またたとえば、上昇調の「あら」と違って下降調の「あら」は『マダム』、つまり一種の『大人』の物言いである(第26回)。このことも、常識的な『大人』論あるいは『マダム』論では説明しきれないだろう。
「田中さん、佐藤さん、鈴木さん、山田さん、……」と言えばいいところでいちいち「と」をはさみ、「田中さんとぉ、佐藤さんとぉ、鈴木さんとぉ、山田さんとぉ、……」などと細切れにして言う(特に戻し付きの末尾上げ(第14回参照)で、「と」をことさら高く言い「ぉ」で下げて戻す)のは、『子供』のしゃべり方だと思われている。そしてそのことは、「とかく『子供』というものは考えを十分まとめないうちにしゃべり始めてしまい、しゃべりながら考えていくものだ」といった常識でかんたんに説明できそうに思える。“A, B, C, D, …”と言えばいいところでいちいち“and”をはさみ、“A, and B, and C, and D, …”と言うのが子供っぽい、という英語の事情にも思い当たれば、この説明はもうすっかり確かなものに見えてくるかもしれない。
だが、忘れてはならないのは「留守の間に田中さんだっけ、人が来たよ」「男の人が8人だったか、荷物を届けに来た」のような物言いである。留守中に来た人物が誰であるか、荷物を届けに来た男が何人だったかを詳しく思い出さないまましゃべり始めてしまい、途中で考えていくこの言い方は、『子供』のものではなく、『大人』の技である。
つまり「考えを十分まとめずにしゃべり始める」という行動には実は、『子供』の稚拙なものとは別に、それなりに余裕を持った『大人』の弛緩したものがある。両者は現れる構文が違っており、『子供』のそれは、たとえば「田中さんとぉ、佐藤さんとぉ、鈴木さんとぉ、山田さんとぉ、……」のような並列構文に現れるが、『大人』のそれは文中の「田中さんだっけ」「8人だったか」のような挿入構文に現れる。
さらに言えば、『子供』は「留守の間に田中さんだっけ、人が来たよ」のような挿入構文はしゃべらないものの、たとえば家庭内でだらけ弛緩して「まぁだ食べてぬぁいのだぁあ」のようにしゃべることはめずらしくない。弛緩にもいろいろ種類があるわけである。一方、「田中さんとぉ、佐藤さんとぉ、……」のような並列構文はしゃべるとはいっても、「田中さんとだ、佐藤さんとだ、……」のように「だ」付きの並列構文はしゃべらない(それは『おやじ』という『大人』の技である)。こういうことは、「とかく『子供』は考えを十分まとめずにしゃべり始めるもの」といった常識だけで片付けられる問題ではない。
必要なのは、「並列構文とはどういう構文か?」「「だ」付きの並列とはどういうものなのか?」「挿入構文とはどういう構文か? それはどういう意味で「弛緩」しており、それは「まぁだ食べてぬぁいのだぁあ」の「弛緩」ぶりと、どう違っているのか?」、そして「ここで『子供』と呼んでいるキャラクタ、『大人』と呼んでいるキャラクタは、実はそれぞれ何者なのか?」といった、常識を超えた問い直しである。ことばづかいを手がかりに、構文とキャラクタの双方に対する理解を「常識」レベルから深めていくこと、研究の醍醐味はまさにここにある。