1917年11月22日、山下たち委員会一行は、ニューヨークに戻ってきました。約6週間の予定でアメリカ東海岸一帯での視察をおこなう、というのが委員会の最大の目的であり、マンハッタンのプラザ・ホテルに委員会の本拠をかまえ、各委員がそれぞれに調査をおこなうのです。山下は、ニューヨークの各銀行を調査して回り、日米合弁銀行の設立の可能性、あるいは、独立の日系銀行の設立の可能性を探るとともに、連邦準備銀行のシステムを日本と連動させる方法を模索するのが、主要な任務でした。
しかし、現実に調査を始めてみると、山下は、ニューヨークの巨大銀行での労働効率の高さに、目を回さんばかりでした。ナショナル・シティ銀行にしろ、チェイス・ナショナル銀行にしろ、ほとんど全ての行員が、タイプライターと手回し計算機で業務をおこなっているのです。もちろん、日本の銀行においても、そろばんや手回し計算機は使われていますが、タイプライターは導入されていません。手書きの伝票では、タイプライター打ちの伝票に、スピードも読みやすさも、全く太刀打ちできないのです。これでは、独立の日系銀行をアメリカに設立できたとしても、すぐに競争に負けてしまいます。それに加え、いくつかの銀行では、遠隔タイプライターと呼ばれる機械の導入を検討していました。電信為替(telegraphic transfer)においては、送り元の銀行で伝票を作り、その内容をモールス電信で相手先銀行に送って、また相手先銀行で伝票を作ります。もし、遠隔タイプライターを電信為替に導入できれば、伝票作成と電信を全て同時に、遠隔タイプライターだけでおこなうことができるのです。
実際、ニューヨークの街中を歩いてみると、「Remington Visible Typewriter Model 10」「Underwood Standard Typewriter No.5」「L. C. Smith & Bros. Typewriter No.5」「Royal 10」など、様々な種類のタイプライターがショーウィンドーを飾っていました。それはすなわち、ニューヨークには、タイプライターの需要がそれだけたくさんある、ということを意味していました。ニューヨークでは、銀行だけでなく、ほぼ全ての企業でタイプライターが使われているのだろう、とすら山下には思えたのです。
(山下芳太郎(32)に続く)