1943年12月17日、軍需会社法が施行されました。新興製作所は1944年3月に軍需会社の指定を受け、空襲下での軍需生産確保のために、東北地方への疎開が勧奨されました。当時、インドのベンガルに、アメリカの新型爆撃機B-29が配備されつつあり、中国を経由して、日本本土への空襲の可能性が懸念されていました。実際、中国の成都には、大規模な飛行場が建設されているとの情報がありました。B-29の航続可能距離は不明だったものの、軍需省としては、軍需会社を、少しでも北に分散させておく必要があると考えていたのです。
新興製作所を疎開させるにあたって、谷村が考えたのは、花巻工場を疎開先とすることでした。花巻工場には、すでに100人近い報国隊が働いており、疎開の受入先としては申し分ありません。しかし、新興製作所全体を疎開させるとなると、これまでに借り受けた花巻町内の建物では、どう考えても手狭でした。もっと広い敷地に、新たな工場を建設する必要があったのです。花巻町の及川主事や宮沢町長とかけあった結果、花巻城址の南東角、鳥谷崎神社の南側にある公園敷地を、新興製作所の新たな工場用地として借り受けることになりました。また、1944年11月には、花巻の学童勤労動員を、新しい花巻工場に受け入れることにしました。
谷村が花巻工場を拡張している間にも、日本の戦況は、日に日に悪化の一途をたどっていました。1944年7月にはサイパン島が陥落し、11月24日には東京がB-29の襲来を受けました。その後、東京はたびたび空襲を受け、そして、1945年4月15日の大空襲で、蒲田工場は全ての建物が全焼、新興製作所は壊滅的なダメージを受けます。この日、谷村は、蒲田から工作機械を数台、花巻に運搬したところで、花巻温泉にいました。そこへ、蒲田一帯が火の海との一報が入り、取るものも取りあえず、花巻駅へと向かったのです。
二日がかりでたどり着いた蒲田は、完全な焼け野原でした。工場も自宅も焼け落ちてしまい、どこまでが道路で、どこまでが建物だったのか、全く分からない有様でした。けれども、妻も工員も挺身隊も皆、無事避難していて、けが人が無かったのは不幸中の幸いでした。谷村たちは、新興製作所の看板と門柱を掘り起こし、焼け残った金属板で10坪ほどのバラックを建てました。そうこうしているうちに、花巻から救援隊がやってきました。急を聞いた報国隊の旦那方10人余りが、あるだけの物資を手に、谷村を追いかけて来たのです。谷村は、蒲田工場で働いていた女子挺身隊を花巻に帰すべく、妻に引率を託しました。また、学童挺身隊も救援隊とともに岩手に帰しました。そして、谷村自身は、東京に残ることにしたのです。幸い、新橋の第一ホテルは焼け残っており、寝泊まりが可能でした。蒲田工場のバラックに「第一ホテルに仮事務所を設置」と立札し、谷村は、陸海軍や軍需省との連絡に備えることにしたのです。
(谷村貞治(8)に続く)