図鑑の思い出
物心ついて最初に覚えている記憶は、春の暖かな日差しが差し込む縁側で、家にあった百科事典を眺めている風景である。
秋や夏ではなかったと思う。投げ出した足の上に重たい本を広げて、一心不乱にそこに載る写真や絵に見入っていた。
縁側なので、そこから小さな庭が見えるのだが、縁の下からちょろちょろととかげが這い出てきて、それらを「なんだろう」と思いながら、百科事典のなかの「爬虫類の図鑑」としてまとまっていた一冊を眺めていたのである。
その縁側は、自分にとってちょうど良い読書スペースだったようで、その後の記憶も大概そこで図鑑を広げていた。同じ百科事典の中の「西洋美術図鑑」であったり、「化石・恐竜の図鑑」であったり。
たぶん、そのシリーズはその頃の一般家庭でステイタス的にそろえるようになった、某出版社の百科事典全集のようなものだったのだろう。しかし「百科事典」なので、書棚に入っている頭の方は「あ行」「か行」といった具合に、事典らしく言葉の順番にあらゆる事象をまとめていたものであるが、字が読めない子どもにとっては面白味はなく、そのシリーズの別巻のようになっていた「○○の図鑑」と分かれている巻をいろいろと眺めていたのである。
子ども向けの学習図鑑を手に取るよりも前に、大人が読む(もしくはそろえる)図鑑を手にして、そこに繰り広げられる博物学的な知識を眺めることがとにかく好きであった。文字が読めないのだから、それが何であるかは理解できていないが、それでもそういう生き物や絵画の作品などを楽しむことで、世の中にはそういったものがあるのだと理解することと、それはなんだろうと空想する力も培われたと思う。
その後、小学校に入学するあたりからは子ども向けの学習図鑑を買い与えられ、文字と写真や絵などが同時に視覚に入ってくることで、抵抗なく文字も覚えられるようになったと思っている。これはやはり写真や図が入っている図鑑を眺めていることで、子どもながらに文字の学習と言葉の学習が同時にできていったからだろう。実のところ、そこまでの記憶がしっかりあるわけではないが、小学校ではとにかく「本が好き」というキャラクターができあがっていたので、とにかく本ばかり読んでいたことは確かだ。
三省堂さんの『サイン・シンボル大図鑑』が発売になる前に、展開方法についてご相談をいただいた時に、やはり「図鑑」なので図版を大きく見せる展開ができればと思い、当時勤務していた店舗のエスカレーターの壁面を使い、気に入った図版を大きく引き伸ばしていただいて、パネル展を展開させていただくことができた。「図鑑」の楽しさはそこに載る図版を眺めることで知識がつくことでもある。特に『サイン・シンボル大図鑑』は、私の中では、現実と創造がうまく交わる一冊であった。
ちなみに「本」の一番好きなところは、現実の知識を得る為の方法であると同時に、創造・想像の余地があるところである。特に小説などフィクションは、文字だけで描かれる世界を自分の脳内での変換によりどれだけ視覚的に創造・想像できるかが醍醐味だと考えている。
だが『サイン・シンボル大図鑑』で掲載されている内容は、現実の知識とそこから創造・想像されるものが、図版としてダイレクトにリンクして知識が入ってくる。「なぜ、こんな想像をした人がいるのだろう?」「この創造はどこから生まれたのだろう?」といった「なぜ?」という原初的な知識欲を満たすことができるのである。
最近は、科学的な知識の図鑑が流行っているが、こちらも「想像」しかなかったものが視覚的に図版としてみることができるのだ。こういった科学的知識は、最近はだれもがインターネットに簡単に接続して検索して、「図版」になったあらゆる知識を手に入れることができるようになっている。だが、私がとかげを見ながら図鑑を眺めていたように、やはり「本」の重みと文字と図版をすべて同時に感じることができる「図鑑」は、これからも「読書」の楽しみの原体験として残っていくことだろうし、残していけるようにしていきたい。
残していくために書店人である自分にできることは、『サイン・シンボル大図鑑』で行ったパネル展のように、とにかく書店にいらした方に「図鑑」の楽しさを伝え、また普段書店に来ない方には書店に来たくなるようなアピールをさまざまな媒体でおこなうしかない。とてもアナログな方法かもしれないが、これからもそんなアナログな楽しさを提供していきたい。