人名用漢字の新字旧字

第47回 「涙」と「淚」

筆者:
2009年11月19日

旧字の「」は人名用漢字なので、子供の名づけに使えます。新字の「涙」は常用漢字なので、やはり子供の名づけに使えます。ただし、旧字の「」には、かなり複雑な歴史があるのです。

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昭和17年6月17日に国語審議会が答申した標準漢字表には、旧字の「」が収録されていました。ただし、その字体は「さんずいに戸に犬」でした。右上が「戸」だったのです。昭和21年11月5日に国語審議会が答申した当用漢字表は、手書きのガリ版刷りでしたが、やはり旧字の「」が収録されていて、その字体は「さんずいに戸に犬」でした。この時点の国語審議会は、「」の字体を「さんずいに戸に犬」だとみなしていたのです。

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当用漢字表は、翌週、昭和21年11月16日に内閣告示されました。官報に印刷された当用漢字表では、ところが、「」の字体が「さんずいにに犬」になっていました。印刷局が官報に使っていた活字では、「」の右上が「戸」ではなく「」だったのです。昭和23年1月1日の戸籍法改正で、子供の名づけに使える漢字は、この時点の当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「」が収録されていましたので、旧字の「」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。しかし、その字体は「さんずいにに犬」だったのです。

昭和23年6月1日、国語審議会は当用漢字字体表を答申しました。当用漢字字体表では、旧字の「」に代えて、新字の「涙」が収録されていました。昭和24年4月28日に、この当用漢字字体表が内閣告示された結果、新字の「涙」が当用漢字となり、旧字の「」は当用漢字ではなくなってしまいました。 当用漢字表にある旧字の「」と、当用漢字字体表にある新字の「涙」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、旧字の「」も新字の「涙」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。

昭和56年3月23日、国語審議会は常用漢字表を答申しました。常用漢字表の「涙」には、カッコ書きで旧字の「」が添えられており、旧字の字体は「さんずいにに犬」でした。これに対し民事行政審議会は、昭和56年4月22日の総会で、常用漢字1945字を子供の名づけに認めると同時に、常用漢字表のカッコ書きの旧字のうち、当用漢字表に収録されていた旧字だけを、子供の名づけに認めることにしました。

ところが、昭和56年5月14日の民事行政審議会答申では、旧字の「」は子供の名づけに使えるものの、その字体は「さんずいに戸に犬」となっていました。民事行政審議会は、右上が「戸」の標準漢字表字体を復活させてしまったのです。昭和56年10月1日の戸籍法施行規則改正では、旧字の「」が人名用漢字になりましたが、その字体は「さんずいに戸に犬」でした。つまりこの時点では、常用漢字の「涙」と人名用漢字の「」の両方が子供の名づけに使えたのですが、字体はいずれも右上が「戸」だったのです。

平成16年9月27日、法務省は戸籍法施行規則を改正しました。この改正で、人名用漢字の「」の字体は、右上が「戸」から「」に変更されました。「さんずいにに犬」の字体が、23年ぶりに復活したのです。逆に言えば、右上が「戸」の「」は、昭和56年10月1日から平成16年9月26日の間だけ、子供の名づけに使えたということになります。現在では、新字の「涙」も旧字の「」も出生届に書いてOKですが、字体はそれぞれ「さんずいに戸に大」と「さんずいにに犬」なのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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