中宮定子から詠歌御免の許しを得た清少納言は、「いと心やすくなりはべりぬ。今は歌のこと思ひかけじ(とても気が楽になりました。今はもう和歌のことは気にかけないでしょう)」と言っていました。そんな頃、庚申待をなさるということで、内大臣様が様々な準備を整えました。
古代中国の道教思想に、人の腹の中に三尸(さんし)という虫が住んでいて、庚申の日に天に昇って人の罪状を天帝に告げ、寿命を縮めさせるという信仰があります。それが日本に伝来し、庚申の夜は三尸が天に昇らないように見張るため、種々の遊びをして夜を明かす風習になりました。その行事を庚申待と言います。ここで準備に奔走した内大臣は定子の兄の伊周です。
さて、夜が更けゆくころ、題を出して、女房たちに歌を詠ませることになりました。一同が苦心して作歌に取り組んでいる中で、清少納言一人だけが中宮様の御前近くに伺候し、和歌以外の話ばかりしています。それに気付いた伊周が咎めると、清少納言は詠歌御免を賜った事を話しました。伊周は驚いて、どうしてそんなことを中宮が許されたのか、他の時はともかく今宵は詠めと、迫ります。しかし、清少納言はまったく聞き入れず、相変わらず詠歌に参加しようとしません。人々が皆、和歌を披露し、その評定が始まろうという時分、定子が文を走り書きして、清少納言に投げてよこしました。そこには一首の歌が書かれていました。
元輔が後といはるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる
(あの歌人元輔の子と言われるあなたが、今宵の歌会に加わらずにいるのですね)
歌人の子という肩書を負った清少納言の立場を十分に理解した上で、戯れかけてくる定子に対しては、詠歌御免を決め込んでいた彼女も思わず和歌を返さずにはいられませんでした。
その人の後といはれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞよままし(もし、私がその元輔の子といわれない身であったなら、今宵の歌会では真っ先に詠んだことでしょうに)
意地を張っていた清少納言も定子に対して負けを認めざるを得ません。女房たちの中で積極的に行動し、やや調子に乗ってしまう清少納言と、彼女を容認しながら優しく諫める中宮定子の交流を描くのは、職曹司時代の典型的な章段内容です。
ところで、この話の中に歴史的事実と異なっている部分が一箇所あります。それは、定子の兄伊周が内大臣として記されていることです。この章段は、職曹司時代の5月を扱っていますので、記事の年時は長徳4年か5年のいずれかの5月になります。伊周が長徳2年の変で内大臣の官位を剥奪されて大宰府権帥として左遷され、都に戻ったのは長徳3年の12月でした。その半年後から2年半後に相当する職曹司時代には、まだ正式な官職も定まっていない状態でした。『栄花物語』などは、この時期の伊周に対して、「前帥殿(さきのそちどの)」という呼称を用いています。『枕草子』のこの段の「内大臣殿」という呼称は間違いなのです。
ではなぜ作者は伊周の官職呼称を間違って記したのでしょうか。実は、そのように考えることの方が間違っているとあえて言いましょう。『枕草子』に登場する中宮定子の兄伊周は、決して罪人であってはならないのです。彼が罪を負い左遷された過去の事件を表す呼称は、作者には用いることができなかったと考えるのが妥当だと思います。
職曹司時代の章段は一見明るく、平穏な日々を描いているようで、様々な歴史的内実を抱いた章段群です。そこに注意を払いながら読み進めていきたいと思います。