新潟では、県内の人は「潟」の誤字体を書くことが少なく、意図的に「」と略す傾向にある。とくに新潟市内では、住所などで「潟」字体をよく書く必要があるため、略字の使用頻度も高かった。しかし、江戸時代には全国的だった略字が伝承されていたが、市内でも若い人は見たことがないと言い始めている。
新潟では、どこかの看板でも「潟」の「臼」の部分が「旧」になっているとの話に花が咲いた。「写」型と「旧」型との両方を使うという人も、実はまだ稀ではない。
むろん地元でも、「正しく」書けたと思っていても、間違えて書いている人はいないではない。鹿児島出身の学生が、その「鹿」を誤って、独自の個人文字の字体で書きつづけていたこともあった。
「潟」は、正確に書いても他の字との類推が働きにくい(正しいとされる字体も、篆書の字体とも実は異なっている)。特に次のような点が間違われやすい。
チェックポイントが多い字だ。「潟」をよその人は「湯」のように書いてくる、という。地元紙でも、県外の整理部の人がそのように伝票に書いて、見出しに出てしまったこともあったそうだ。「書き原」(手書き原稿)の時代だからこそ起きたことだ。
「臼」の部分に「旧」という字体も使うという方は、40年ほど前に漢和辞典で見たそうだ。少し見たところ、こういうものに早くから着目していた『大字典』ではなさそうで、気になる。
この字には、上記のように関門となるチェックポイントが3つ4つあり、それらの組み合わせ如何で、しばしば書き誤られるのだ。「干潟」など普通名詞としての使用機会もそう多くなく、ほとんどの人々には内省の機会も乏しい。
「」という略字は、江戸時代には、芭蕉も使っていた(『日本の漢字』に写真を載せてみた)。『節用集』にも載るくらい普通の字体であった。漢字は神様への甲骨文字ではなくなって久しい。むろん科挙合格の手段でもなくなった。よく使う字は略されて人の側に近よったのだ。
止瀉薬の「瀉」を「潟」と混同して使うことは、古くは平安時代ころからあったことで、誤用とはいえ「瀉」で「かた」と読ませるものが下敷きとなって、「」が生じたのであろう。今でも、島根県でもこの略字は使われていて(第51回)、バスの先頭の大きな行き先表示で使用された写真を下さった方もいた。太平洋側でも、千葉でこの略字が今も使われているケースについて熱心に調べてくださっている方もおいでである。
新潟県内では、「西頸城郡」、「頸城平野」などが「西頚城郡」、「頚城平野」などと略されることがあり、それが医療関係者が「頸椎」などを「頚椎」のように略す字体とよく一致する。略字が市民権を得るケースもまだある。親不知を挟んだ富山県の「礪波」地方では、教科書での使用さえも認められていた「砺波平野」だけでなく、「砺波市」まで誕生した。
辞書にはなかなか載らなくとも、生活の中で使われ続けている文字はこのようにたくさんあった。しかし、方言文字(地域文字)と呼ばれた地域文化は、時代の変化の中で風前の灯火にある。話しことばの語彙や文体を中心に、ツイッターやブログ、ケータイなどでのメールで、方言は生き生きとした情感を再び伝えるようになった。ことばの地域的な変異には皆寛容となっていて、キャラクター付けの道具やおしゃれなブームのようにさえなっている。一方、文字には地域色豊かなものがあるということ自体がほとんど知られていない。漢字は規範に沿って、いやそれ自体が規範的な存在として厳格に、正しく使わなくては、という意識に硬く縛られてしまっている。これらの矛盾から、文字の本質というものを、伝達と効率の面から考えるきっかけになることを期している。