小さな子でも知っている基礎的な概念をことばで説明することは、かえってむずかしいものです。たとえば、「大きい」「多い」は、幼児が最も早く覚えることばに属しますが、辞書の中でそれを説明するとなると、たいへん苦労します。
「大きい」は、「空間に占める割合が多い」のように説明することができます。ところが、その「多い」を説明するためには、「数量の程度が大きい」というように、「大きい」を使いたくなります(実際に、ある辞書ではそうなっています)。「大きい」「多い」の説明が循環してしまいます。
辞書によっては、説明を諦めたかに見えるものもあります。「大きい」は「空間を占める容積や面積が大である」、「多い」も「数量が大である」として、両方とも「大である」でまとめています。「大」を引くと、「大きい方あるいは多い方であること」と出てきます。このようにすっぱり割り切るのも、ひとつの方法かもしれません。
では、『三省堂国語辞典』はどうでしょうか。これが、なかなかおもしろいのです。 まず、「大きい」は〈容積が多い。かさが多い。〉と、「多い」を使って説明します。一方、その「多い」の説明は、第二版(1974年)以来、こうなっています。
〈数や量が、こんなにある、という状態だ。〉
思わず、あっけにとられる説明です。「『こんなにある』って、どんなふうにあるんだ?!」と聞き返したくなります。珍語釈と見る人もいるかもしれません。
でも、よく味わってみると、これは名語釈というべきです。小さな子に「多い」の意味を聞かれたとき、大人はおそらく、「あめ玉が、こーんなにある、ということだよ」と、手を広げて見せるでしょう。この説明のしかたを、『三国』はそのまま採用したのです。
辞書では手を広げて見せることはできませんが、「こんなに」ということばの中に、程度の大きさを示す要素が入っています。「こんなにある」は、存在する数量の程度が大きいということを、素朴に、直感的に分かるように説明したものです。
もっとも、それならば「こんなに」や「そんなに」の意味はどう説明するかということが、課題として残ります(『三国』では、特に説明はありません)。そこまでの説明を求める人がどれだけいるかは疑問ですが、できればなお工夫したいところです。