1883年3月、アメリカン・ライティング・マシン社は、コリーに生産工場を増設しました。新たに78キーの「Caligraph No.3」を発売するにあたり、マンハッタンの工場では手狭になってきたからです。ただし、コリーの工場は、あまりうまくいきませんでした。アレンにもハーモンにも技術力がなかった、というのも一因ですが、そもそもコリーでは、腕のいい工員が集まらなかったのです。それに加えて、コリーは、ニューヨークからもシカゴからも離れているため、どうしても輸送費が高くついてしまいます。ヨストとデンスモアは、生産工場の新たな移転先を、東海岸に探すことにしました。
一方、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社は、「Remington Standard Type-Writer No.2」と「Caligraph No.2」の比較広告を、雑誌や新聞に続々と掲載していました。この比較広告を、少し引用してみましょう。
「Standard」タイプライターは「Caligraph」に較べ、ほんの少しだけ高価だが、しかし「Caligraph」は、安価な競合機という需要に合わせただけのものだ。
前方で蝶番状に固定されたキーレバー、キーレバーの真ん中にあるキーボタン、開放された後方に取り付けられた活字、で構成される「Caligraph」のシステムは、レミントンの特許に対する支払いを避けるためのもので、動作が遅く、感触がバラバラで、覚えにくく、非常に貧弱なキーボードという結果に終わっている。この「必要の子供」をアメリカン・ライティング・マシン社は、「Caligraph」と命名したのだ。
「プラテン・シフト」機構の特許を避けるべく、72種類の活字を有する「Caligraph」は、76種類の活字を有する「Standard」タイプライターに較べ、ほぼ2倍もの数の部品が必要となっている。これら2倍もの数の部品は、値段を下げるべく、軽くてチープな素材で作られているのだ。
しかも、この比較広告と同様の内容を、『The Cosmopolitan Shorthander』誌1884年9月号に、ウィックオフが署名入り記事として寄稿しました。ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社の社長みずからが、「Caligraph No.2」を讒誣したのです。これに怒ったデンスモアは、『The Cosmopolitan Shorthander』誌の翌月号に、長文の反論を寄稿しました。
(ジェームズ・デンスモア(25)に続く)